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2012年4月20日 3:08 PM

ああ千早城、いまも幕府軍の歓声がひびく

金剛山ロープウェイ
17日、千早赤阪村へいってきました。大阪府でたった一つの村です。この地で奮戦した楠木正成のことを書くための現地取材です。
 東北の被災地見学のときと同様、元テレビキャスターの山本健治氏に運転してもらって一帯をめぐりました。おかげで執筆意欲が大いに盛りあがっています。
 地図で見てえらく遠いように思っていましたが、道路の発達のおかげで私の住む茨木市から、車で二時間たらずでした。まず太子町へ入り、聖徳太子の墓のある叡福寺を見学しました。ここは正成軍が幕府軍と戦う拠点となったところです。
 ついで正成生誕の地といわれる建水分神社、地元の博物館を見学。あとは観心寺へ寄って広大な規模の寺なのにおどろきました。正成は少年時代この寺で学問をしたそうです。先祖は鎌倉幕府の御家人で、この寺の守護として赴任してきたという説もあります。
  観心寺の壮大なのにはカンシンしましたが、参詣者の多いのにはさらに驚嘆しました。八割方が年配者。60代後半の人なら忠義の英雄楠木正成にそれぞれ知識 はあるはずで、その人々が正成伝説をたしかめにきているのだとわたしは見ました。とすれば阿部牧郎版「楠木正成」にも多少の読者がつくでしょう。なんだか 心強く思いました。
 あとは千早川にそって金剛山を目指しました。富田林市を抜けてからは周囲は全くの田舎です。山々が背の順番に低いほうから整然と並んでいて、奥のほうに葛城山と金剛山がそびえています。
  楠木正成は鎌倉末期の元弘元年(1331)後醍醐天皇の呼びかけに応じて下赤坂城に挙兵、幕府軍と戦いました。一度挫折したものの二年後に再起、一千名足 らずの手勢とともに千早城にこもって数万の幕府軍を迎え撃ちました。すぐに落城と見られたのに千早城は落ちず、そのうち全国各地に反幕府の軍勢が決起して ついに倉幕府を滅亡させたのです。正成は天皇親政実現の最大の功労者として歴史に名をとどめました。戦後までは日本史上の忠臣ナンバーワンとして国民の敬 愛の的だったのです。
 千早赤阪村の山々にはそれぞれ城を建設できます。森が深いし道が曲がりくねっているので、ゲリラ戦には絶好の地形です。
「なるほど、これなら幕府の大軍が押し寄せても一望できるなあ」
「来やがった。来やがったてなもんですな。森のなかから自由自在に相手の弱点を攻撃できる。地理を知らない幕府軍は右往左往するばかりでしょう」
 そんな話をしながら奥へ奥へとすすみました。
  いまは中学校となった下赤坂城、上赤阪城、千早城への登り口を素通りして金剛山へ向かいました。次第に木々が厚くなり、山は険しくなります。千早川はいつ のまにか深い谷底の流れとなって細い帯のように見えます。まったく大阪府下にこんな幽玄な地域があるのかと思わせる、14世紀そのままの光景です。道路が 舗装され車の往来がなければ、完全に正成時代に立ち返った心地になるでしょう。
 ロープウエイで金剛山の頂上へ向かいました。終点 から金剛寺まですぐだと思ったのが大間違いで、1000メートルの山道をたどることになりました。さほど急坂ではなかったけど、上りの1キロは相当の重労 働です。普段の一万歩ウオークのおかげでようよう金剛寺へたどりつきました。
 河内平野、大阪湾、さらに六甲山方面まで一望できます。この地を支配していた正成が事実上の大名だったことが実感できました。平野と山々の眺望はたしかに正成時代そのまま残されています。
 帰り道千早城へ登る気でいました。ところが登り口に足を踏み入れると、前途には急な数百段の石段がつづきます。金剛山の山道で疲れきっていたのでわたしは二の足を踏みました。
 「せっかく来たんやから途中まで登りましょう」
 山本氏にはげまされてしばらくエイコラエイコラ登りました。
  石段は際限なくつづきます。ところが突然雨が降り出しました。驟雨でした。山の天気は変わりやすいというのはほんとうです。おまけに雷鳴がとどろきはじめ ました。激しい雨、そして雷鳴。数万の幕府軍の歓声を聞く思いです。雨に烟る山腹を埋めた木々の一本一本が幕府軍の兵士に見えました。
 これはいかん。もう帰ろう。わたしは登る気力が失せ、千早城跡の見学は再度挑戦しようと山本氏にいって同意を得たのです。千早城跡を見なくとも、そこがどんなに堅固な要塞だったかよくわかりました。
攻防戦の模様を活写する自信があります。
 千早赤阪村を出て富田林市に入ると14世紀から一気に現代へ飛び込んだ気分でした。夕刻には無事帰宅。正成を書きだして必要が生じたら再度訪問するつもりです。