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2014年5月20日 3:50 AM

やっとわかった有難味

今年は学童疎開70年なのだそうです。疎開を語る会が各所で開かれているよ
うです。語り部の気持はさまざまだろうけど、70年もの歳月のおかげでわた
しもやっと客観的に当時を振り返れるようになりました。
元朝日放送の上田博章氏の著作「疎開絵日記」によると、「学童疎開の促進に
関する法案」を東条内閣が閣議決定したのは昭和19年6月28日。8月の初
めには東京で学童疎開が始まったそうです。
疎開には縁故疎開と集団疎開の2種があります。学校の同級生がそろって地方
に移住するのが集団疎開、親戚などを頼って個別に地方へ移るのが縁故疎開。
上田氏もわたしも縁故疎開のほうです。学童疎開といえばふつうは集団疎開を
意味するようです。
わたしは京都の北白川国民学校の五年生でした。東京、大阪などでは疎開騒ぎ
が起っていたのに京都はまだのんびりしたもの。それでも空襲にそなえて御池
通りなどで民家の取り壊しが始まっていました。いやは光景でした。つられて
縁故疎開に踏み切った子供が何人かいたようです。
わたしの父は京都府庁に勤務していました。昭和20年になってから、お前た
ちは秋田に疎開しろといいだしました。米軍機が京都上空を旋回して、
「花の京都は後回し」というビラを撒いたのです。
京都市民に油断させて空襲する気だ、というのが父の解釈でした。とりあえず
わたしとすぐ下の弟が秋田へ移り、数か月後下の3人の弟妹を連れて母がつづ
く計画でした。父も母も秋田県の出身で、父の実家は農村にありました。
5年生から6年生になる春休みのある日、 私と弟は京都へきていた叔母に連
れられて青森行きの列車にのりました。母が末の弟を抱いて京都駅に見送りに
きました。改札口を通って振り返ると赤ん坊を抱い田母が、じっと私たちをみ
つめていました。このまま母と生き別れになるような気がして、泣きたいのを
わたしは我慢したものです。
列車は北陸線経由でした。ノロノロと走り、夜中新津の駅で空襲のため何時間
が停まりました。わたしが母の姿を思い浮かべて涙ぐんでいるとす叔母が、
「あんたはやんちゃ坊主だと思ってたのに案外意気地なしだね」
とアホなことをいいました。わたしは生まれて初めて大人を軽蔑したものです。
旅は3日がかりですした。翌々日の朝大館へ着き、支線に乗り換えて鹿角盆地
へ入りました。駅から家まで約1里の道を歩きます。三月なのに野山は雪に覆
われ、かやぶき屋根の家々の軒端がら1メートルもあるつららが下がっている
のには驚きました。
谷内という村落にある古い大きな家で祖父母が待っていました。祖父といって
も父には叔父に当たります。父の父は長男でしたが日露戦争で戦死し、次男が
家を継いだのです。わたしにとっては大叔父にあたるわけです。大叔父の連れ
合いも「おばあさん」と呼んではいたが、赤の他人でなんの親しみも感じませ
んでした。
この大叔父が遊び人でお人好しで鉱山経営などに失敗、大地主だった阿部家を
破産させた張本人なのです。父は家を継がずに京都の役所へ出たわけです。家
は大きいだけでおんぼろ、戸障子も畳も仏壇も借金取りにもっていかれて家は
ガランとしていました。
最初おどろいたのは便所が外後架だったことです。家の横に小屋があってそれ
が便所でした。床板の間に切れ目があるだけで便器はなく、そこへしゃがんで
用を足すのです。排泄物が凍って盛り上がっていて用を足すときは棒で突き崩
さねばならないのです。突き崩すと鈍い臭気が漂いました。北白川では小奇麗
な課長官舎で暮らしていたので、大ショックだったものです。
でも苦労は学校へ行ってからでした。北白川では1学年男女各2組の編成だっ
たのに、ここでは男女合わせて1学年1組だけ。学力は北白川で中の下ぐらい
の生徒が堂々と級長でした。
担任は師範学校を出たばかりの美人の村田先生。この先生が都会っ子が珍しく
てわたしを大いに可愛がってくれたのです。
「マキオさん、また100点ですね。ほかの人も見習いなさい」
「マキオさん、京都ではどこもコンクリートで固められているでしょう。田舎
の山で良い空気を思いっきり吸いなさいね」
「マキオさん将来何になるの。学者さんかお医者さんだろうね。政治家になん
かなってほしくないわ」
なんでもマキオさんなのです。ほかの生徒が面白いわけがない。わたしは先生
にタスされてるとみんなにいわれました。タスはプラスのこと。つまり贔屓さ
れているという意味です。なんでこんなアホの多い学校で贔屓なんかされなく
てはいかんのや。わたしは大いに不本意でした。
ことあるごとに差別というか区別されました。
「ほう。やっぱり京都から来た人は違うな」
「おらみたいなバカとは一緒に勉強してられねえべ」
「おめえ、弁当はイモとカボチャか。白い飯食ったことねえべ」
百メートル競走で勝つと「自分ばかり速そうな顔するな」といわれます。仕方
なく3着ぐらいになってやると「おらたちとは真剣に競走できねえべ」とくる。
ためしに相撲をとってみると、大して強い奴はいません。これなら喧嘩しても
負けないと思っていると、ある日東京から来た疎開っ子が勤労奉仕を休んだと
いうので十何人かに寄ってたかって殴られるのを目撃しました。泣いて詫びる
のに容赦しないのです。
一人に十人以上で暴行を加えるなんで京都ではありえないことです。農村の子
は徒党を組んでよそからきた生徒を孤立させる。これでは喧嘩するとひどいこ
とになる。わたしはビビって農村が大嫌いになりました。
ほかにも嫌な思い出は数々あるけど、ここで書くにはスペースもないし、思い
だすのも苦痛です。翌年大館の旧制中学へ入るまでは、友達も1人が2人しか
なく、孤立して怯えながら地獄の日々を送ったのです。
8月に戦争が終わりました。やっと京都へ帰れるかとわたしは希望を取戻しま
した。ところが父が役所をやめて郷里へ帰ってきたのです。わたしは落胆し、
翌年旧制中学へ入るまで地獄の農村生活をつづけたのです。
こんな風に私は疎開体験を呪ってきました。長男でありながらめったに谷内へ
帰らずにいます。70年記念というので久しぶりに疎開生活を思いだしました。
わたしも80歳です。疎開の思い出について認識がかわりました。あの農村の
一年のおかげでわたしは京都では得られなかった体験をしました。
敵中で孤立して暮す。長じてセールスや業界紙の記者をやったとき、世間から
見捨てられた思いを味わいました。疎開体験があったから耐えられたようです。
わたしたちは世の中と一体になって暮らしている気で、半面ではとんでもない
敵国に暮らしています。それがわかったのもあの一年のおかげでした。
世の中も人間も見かけ通りではなく、様々な裏があり深い味わいがあります。
人間は伏し拝みたいほど崇高であり、めちゃめちゃに踏んずけたくなるほど低
劣でもあります。怖ろしく複雑な生き物です。都会人の目で農村人を見ていた
わたしはは、一面しか見ずにさまざまな低劣な決めつけをしているにすぎなか
ったようです。
考えてみると後年何とか小説でメシが食えたのも、基本は疎開経験にあったよ
うです。谷内なんか思いだしたくもなかったけど、いまは少々違います。
歳をとるにつれていろんかことが見えてくるのです。
集団疎開の経験者にきくと、ともかく腹が減ったそうです。弁当箱のふたをあけ
ると、中身のメシが傾いて一方へずれ、3分の1ぐらいしか入っていないので、
さらに腹が減ったようです。彼らは飢餓に苦しみました。
私たち縁故疎開組は腹はそんなに減らなかっけど、孤独、孤立に苦しみました。
物書きとなるうえでどちらが役に立ったかと云えば、縁故組だったでしょう。精神
的な苦痛でしたから。
その意味で有難味も感じています。でも、外後架の凍って盛り上がった排泄物を突
き崩したときの鈍く重い臭気が、わたしの感性にどんな影響をあたえたんだろうか。
最近ヒンデミットのガチャガチャした音楽が感性にひびくのは、まさかそのせいで
はないだろうね。

 

 

 

 

  • 丹呉泰子

    阿部先生 お元気そうでなによりです。
    花輪の祖父 庄司が亡くなり早、四半世紀になります。
    大館、新津と馴染みの地名が嬉しくてコメントさせていただきました。