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2013年4月23日 1:55 AM

わが人生のガダルカナル

新聞などで同世代の著名人の訃報に接するたび、「うわあ、あの人もか」とガックリします。友人知人の逝去を知らされたときはすこし違って、戦争中、南方の島で米軍に囲まれ、食料も弾薬の補給もなく疫病に苦しみながらひたすら救援部隊の到着を待つ兵士の一員になった気持です。
仲間が一人二人と倒れて死んでゆきます。「ああ、おれはもうだめだ」と諦めた者から順番に死んでいったとなにかの記録にありました。そばにいる者はいよいよ次はおれの番かという気にさせられます。いや、おれは最後まで諦めないぞと頑張るにしろ、やせ我慢にすぎないことは当人が一番良く知っています。人生の切ないところです。
ましてお医者に、
「あんたはここが悪い」
といわれたら、深刻に受け止めざるをえなくなります。体力に自信のある時分ならともかく、後期高齢者ともなると、お医者の一言だけでかなりダメージになります。
わたしは数か月前から歩くと足元がふらつくようになりました。脳梗塞の前兆かもしれないと思って地元の耳鼻科医院で診察をうけたところ、脳からきたものでないといわれて安心していました。だが、念のため京大病院の神経内科でMRI検査を受けたところ、脊髄小脳変性症という診断が出ました。
運動を司る小脳に萎縮があってふらつきが起こる。放っておくと徐々に運動能力が低下して、数年後には歩けなくなるということです。原因は不明。アルコールのせいかもしれないというので、担当の女医さんから厳重に禁酒をいいわたされました。
半月ばかり禁酒したのですが、ふらつきはおさまらず、検査のため入院することになりました。
「おれもついにガダルカナルか」
とっさにわたしは思いました。
太平洋戦争の優勢、劣勢の分かれ目となった、ソロモン諸島のガダルカナル島攻防戦。日本兵は補給がなく何日もすきっ腹で戦いました。半月もたつと全員骨と皮にやつれはてて、逃げ込んだ密林のなかをふらつきながらさまよったあげく、一人二人と命を落としてゆきました。
ようやく2度ほど援軍の大部隊がきました。
「これまでご苦労さん。おれたちがきたからにはもう大丈夫だ」
援軍の兵士たちは先遣隊の兵士をねぎらいました。
だが、その援軍の兵士たちも15日から20日もたつとやはり補給がなく、骨と皮だけになって密林のなかをふらついてさまようようになったのです。2度総攻撃を仕掛けたのですが、どちらも大失敗におわりました。
攻防戦が始まったのは昭和17年の8月、あっというまに18年の正月がきました。せめてものお祝いに配られたのは飴玉一つ、梅干し一つだったそうです。
わたしの脊椎小脳変性はふらつきが特徴。だから飢えて密林をさまよったガダルカナルの兵士たちを連想したのです。
「おれはもうだめだ」と諦めた者から死んだという事実を思い出して、おれは諦めないぞと自分を鼓舞しました。ともかく生きているうちに良い小説を一冊書こうと決意を新たにしたのです。
でも考えてみるとこれは事大主義というもの。小脳が委縮してバランス感覚や運動神経が鈍くなったところで、車椅子に乗るまでまだ数年あります。人によっては10年ぐらいかかるらしい。
わたしはこの9月に80歳になります。年老いたことを今回ほどありがたかく思ったことはありません。あと何年で動けなくなろうと、大脳が健全なら小説は書けます。70歳のころ医者の誤診で80歳の脳年齢といわれたときはガク然としましたが、まもなく80になろうという現在の身は、あと4~5年も生きれば1~2冊を書き残す時間は十二分にあります。
脊椎小脳変性症は早い人は中学生時代、おそい人でも60歳くらいまでに発症するのが通例だそうです。わたしの発症はナント79歳。むしろこれは幸運のしるしかもしれません。検査入院の結果なにが出てくるかわからないのが一抹の不安ですが、ここは悲観的になる必要はないと思っています。禁酒はまもなく破れるでしょう。
ガダルカナルの日本兵は撤退作戦の成功で玉砕をまぬがれ、3万名中、約1万名が救助されました。わたしが自分をガダルの守備兵になぞらえたのは、ほんとうはそのせいだったのかもしれません。われながらいい気なもんです。