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2012年12月25日 5:13 AM

ケッタイな年末

クリスマスイヴは年賀状書きに追われました。わたしは妙に律儀なところがあって、年賀状は印刷で済ませたくないのです。宛名も、決まり文句の「謹賀新年」も、短いメッセージもすべてサインペンの手書きです。
じつのところ筆で書きたいのだけど、まだ自信がありません。どれだけ時間を食うか見当もつかないということもあります。書道の稽古をはじめてもう6~7年になるのだけど、未だに墨筆を持つ勇気が湧いてこないのです。
絵心がないから、わたしの賀状はブログ同様文字だけの一見無愛想な賀状になります。でも、印刷した賀状よりはずっとマシだと思います。すくなくとも労力をかけているし、手書きの短文には心がこもっているからです。プリントした華やかな絵柄の賀状からは、活字世代の人間は、つまらん漫画を見るような感じをうけるのです。
活字だけのシラッとした賀状は、もらってもうれしくないし、逆に軽くあしらわれている印象をうけます。ちょっとした一言でも、手書きの文字ががあればまだ救われるけど、宛名以外はすべて活字の賀状がとどくと、そんなに面倒なら出すなよ、といいたくなります。いや、宛名まで複写された賀状なんか、目を通すのが時間のムダだと思うのです。
むかしは子供の写真を印刷した賀状が多かったのです。自分にとって可愛い存在は他人にとっても可愛いだろうとの一方的な思い込みでした。だが、近年は少なくなりました。わたしに賀状をくれる人が歳をとったということでしょう。成人した息子と一緒の写真が載った賀状なんて、もらうほうが迷惑ですからね。
わたしは昨年いただいた賀状を名簿にして今年の賀状を書きます。すると郵便番号を書いていない賀状がたまに出てきます。それらは一々番号名簿で確かめて書いれなくてはならないので、まことに手間がかかります。
「この人、去年の賀状を書く時点でおれが来年は賀状を出さんと思ってたのかい」
わたしはぶつぶついいながら郵便番号名簿をひらいて調べてきました。当方のこ手間をすこし考えてくれと言いたいのです。
だが、最近は加齢のせいで謙虚になりました。この年齢になったわたしをわすれずに年賀状をくれるなんて、それだけでありがたいではないか、郵便番号を調べる手間ぐらい惜しむな、とハンセイするようになったのです。この賀状がお年玉の抽選に当たるかもしれん、と考えるといっそう謙虚になります。でも一度として当たったためしがないから、抽選の番号を調べたこともありません。
手書きの賀状でないと気がすまないのは、機械に弱い古い世代の感性なのでしょう。いまでは印刷した華やかな賀状のほうが、誠意を感じさせるのかもしれません。金のかかるほうに誠意を感じる、浅はかな価値観が浸透しつつあるのです。
これに似たちぐはぐ感を抱いたのは最近の衆院選の日でした。自分の姓や名をひらがなで登録した候補者がじつに多かった。たとえばわたしの住む大阪9区では足立康史というという人が当選したけど、登録名は足立やすしでした。康史という名はそんなに難しい字なのだろうか。耄碌した年寄りでも知能の低い成人でも一票は一票、低いほうへ照準を合わせたくなる気持はわかるけど、
「わしらをアホと思うとるんか」
と怒ってべつの候補者に投票した人が多かったのではないでしょうか。この点に関しては立候補者は有権者を舐めきっていたわけです。
もう一つちぐはぐ感をおぼえたのは、当選者のバンザイ風景でした。子供の頃の体験でいうなら、出征兵士を送るために集まった町内の人たちが
「〇〇上等兵バンザーイ」などと絶叫し、出征兵士自身は挙手の礼で応えていました。
出征兵士自身がバンザイすることなどけっしてなかったのです。
ところがいまの選挙では当選者が支援者と一緒にバンザイをします。自分を祝福しているのと同じです。あれはヘンです。テレビで見たところ、前原誠司氏らごく少数の当選者のみがバンザイの声とともに深々と頭をさげていました。マナーを知っていたのは皆無に近かったのです。
当選者が一緒にバンザイするとなんだか安っぽく見えます。出征兵士は国のため生命をすてる覚悟で、決死の面持ちで答礼したけど、当選者諸氏は浮かれて、なんの覚悟もないように見えました。
賀状やらバンザイやらに違和感をもつのは、やはりわたしがけっこうなジイサンになったということでしょうか。そう思うと心さびしい年末であります。