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2012年2月10日 3:03 PM

ドテンと転んで痛くなかった

  東北や北陸の豪雪地帯は凄いことになっていますが、東京でも何日かは雪が積もりました。通勤の人々が滑ってドタン、バタンと転んでいます。怪我をする人も多いらしい。
 その点阪は雪が降っても積もりません。わたしは茨木市に住んで26年になりますが、周囲が雪景色になったことはせいぜい4~5回あっただけだと思います。それも一日が二日で消えてしまいました。だからテレビで東京の雪の日の通勤風景を見て、
 「やれやれ大変やなあ」
 同情しながら笑ってしまうのです。雪の日に革靴で歩くのはそりゃ大変ですよ。
  東北、北陸では都市部の人たちも雪掻きに忙殺されているようです。農村部はさらに大変らしい。最近は若者がいなくなり、老人の一人暮らし、二人暮らしが多 くなりました。70歳をすぎて屋根の雪おろしや道つくりはたしかに重労働です。屋根から落ちたり、屋根からの滑雪に埋もれたりして亡くなる人はほとんどが 老人。わたしなんか、雪のない大阪に暮らす幸運に感謝しなければなりません。
 それはそうなのですが、テレビなどの論調はなにかというと「共生社会の崩壊」です。むかしは村民同士助け合って雪掻きをしたものだが、高齢化、過疎化によってできなくなった。経済優先の風潮が好ましい地域共生社会を崩壊させ、老人たちは見捨てられているというわけです。
  そうかなあとわたしは思うのです。わたしの実家のある村ではたしかに屋根の雪おろしは村民の共同作業でした。今日は○○さんと××さんの家、明日は△△さ んと▽▽さんの家、という具合に本家、別家関係などで10軒程度がグループになり、順番に雪おろしをやっていました。屈強なお父さんや若い衆が主役でし た。田植えなどの農作業もそうだったと思います。
 でもそれは同じ村に住み、同じ村で一生を終える者どうしの連帯でした。地域社会へまぎれこんだ異分子にたいする冷酷さ、意地悪さは格別なものがありました。「美しい共生社会」どころではなかったのです。
 わたしは昭和20年、終戦の年の3月に京都から秋田県の農村に疎開しました。六年生になる直前でした。大雪の年で、野山はまだ1メートル以上の雪に覆われていました。といってももう新雪はなく、溶けかけては凍るのを繰り返したザラメ状の雪でした。
  3月なのに厚い雪があるのと家の軒先からさがった巨大な筍のようなツララに驚嘆しました。京都ではたまに雪が積もると子供たちは大喜びで、雪だるまをつ くったり雪合戦をしたものでした。だが、そんなことをする子は一人もいません。そのことは別段ふしぎではなかった。こんなに雪があってはうんざりして雪だ るまどころではあるまいと子供心に察したのです。
 疎開したらスキーをおぼえよう。わたしは楽しみにしていました。近くの花輪町の運道具店へスキーを買いにゆきました。子供用のが品切れで、大人用の6尺のスキーを買いました。「あんたは背が高いから、6尺でも充分だべ」と店の親父にいわれたのです。
 村の子供たちがスキー場にしている山へ出かけました。京都からきたばかりの子供にスキーができるわけがない。みんな手とり足とり親切に教えてくれるだろうと思っていました。
  ところがとんだ見込み違いでした。だれも教えてくれない。わたしが転ぶと囃し立てる。あざ笑う奴、罵る奴、無視する奴、ひとりとして味方はいません。わた しはシラけて見物にまわりました。すると高等科2年の生徒が「そのスキー貸せ」といってきました。新品を使いこなせずにいるわたしを歯がゆく思ったので しょう。
 わたしは応じました。その生徒はしばらく滑ったあと「折れてしまった」といって返しにきました。一本のが先から30セン チのあたりで折れています。わたしば呆然としたが、上級生に文句をいうわけにはいかない。悔し泣きして家へ帰りました。叔父が折れたスキーを見て、節(フ シ)がある箇所から折れていると指摘しました。粗悪品です。後年考えると、運動具店の親父は何も知らぬ疎開っ子と見て粗悪品を売りつけたのです。以来わた しはスキーをまじめに練習する気をなくしました。
 ことほどさように村社会は新参者に冷酷でした。小学校六年生の一年間は思い出し たくもない孤立の日々でした。大学へ入って京都へもどるまで、わたしは村の余計者でありつづけました。生意気だとか不良だとかいわれつづけたのです。なに よりも辛かったのは私の母が村民の側に立って、村人にきちんと挨拶しろの愛想よくしろのと強要したことです。
 「おまえのこと褒める人はだれもいない」と何度いわれたか知れません。
  高1のときわたしはタバコをおぼえました。タバコを吸うと校内でぐんと顔が広くなるのです。ある日国鉄の駅でタバコを吸っていると学校へ通報した村人がい ました。とんだ「共生社会」です。道で出会う人はみんなどこのだれか顔を知っています。都会育ちのわたしは村には到底入れられぬ異分子だったわけです。
  「共生社会」はそこで一生をすごす者にとっての助け合い社会でした。前途ある若者が見捨てるのも当然です。だから助け合い社会の崩壊を嘆くのは農村の実情 を知らぬメディアのたわ言なのです。共生社会からなんとか脱出したくて若いころわたしは努力しました。いまその社会が豪雪に苦しんでいる。気の毒には思う けど、あんな地方にいなくて良かったというのが偽りのないわたしの本音です。
 数日前、雪のない大阪にいる幸せを噛みしめてわたし は一万歩ウォークに出ました。近くの歩道橋で滑ってドテンと見事に転びました。みぞれが凍ってカキ氷状になっていたのです。したたかに腕を打撲して東京の 通勤者を笑えなくなりました。でもわたしはよろこばしかった。「共生社会」の一員でないことが証明された気分だったのです。