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2012年11月27日 3:35 AM

ホッとするぜ、その一言

歳末宝くじの大売出し。ことしは前後賞込みで1等は6億円だそうです。どこの売り場も長蛇の列のようです。自分が何千万人に一人の幸運児になるのを夢見る人が多いのにはいつもながら感心します。でも、億万長者が68名も生まれると宣伝されると、だれもが「ひょっとすると」という気になります。人間弱い生き物なのです。
かく云うわたしもなにを隠そう「ロト6」をときどき買います。若いころは宝くじを買う人を哀れんだものですが、歳をとって稼げなくなると、つい万が一の幸運を期待したくなるのです。
われながら情けない話です。
「ロト6」の売り場で販売員の女性から
「当たりますように]
といわれると、なんだかホッとします。ストレスが一瞬溶けたような気がするのです。
「ロト6」に2~3000円投資するとき、本人は十分に分別がある気でいます。
[当たるわけはないよ。どうせ遊びだ」
「期待するほどアホやないよ。まあ夢を見る代金なんや」
などと心中けっこう言い訳をしているのです。つまり虫のよい夢想を打ち消そうとしながら、抑えきれない葛藤のなかにあるわけです。。
そこへ売り場の女性から[当たりますように」と声がかかると、ほんのお愛想だと知りながら、百万の味方を得たように感じるのです。当たるわけがない、という分別と、いや、わからんぞという欲望の格闘において弱いほうが声援をうけ、一時的に強気になるわけです。現実はむろん分別のほうへ軍配があがりますけど。
考えてみると、他人の何気ない一言でホッとすることがよくあります。 たとえば病院や医院。医師も看護師も事務員も人を待たせるのをなんとも思っていません。健康のためだから待って当然と確信しています。

わたしたちは待合室で待たされ、会計所で待たされ、薬局で待たされてほとほと疲れてしまいます。病院へ行くのは健康にわるいとニガ笑いするのはいつものことです。

そんなとき看護師や事務員に名を呼ばれ

「アベさん、お待たせしました」

といわれると、じつに心が和みます。
ああオレのことすこしは気にかけていてくれたんや、と感じるのです。向こうは職業的儀礼で云っただけなのだが、疲れた当方には慈悲の声にひびきます。すくなくとも貴重な時間を無駄にした恨みの念が薄くなります。
じっさい[お待たせしまそした」の一声にどれだけわたしたちは救われていることか。その一声がなかったら、不満を抱えたまま一日をすごさねばならないでしょう。
面白いのは看護師や事務員が自分の声によってどれだけ多くの人が救われているか、まったく意識していないことです。日本は思いやりの国だとつくづく感謝したくなります。
パソコンを起動すると「ようこそ」の文字がデイスプレーに現れます。銀行のATMはすこし利用者の動作がおそいと「紙幣をおとりください」と催促し、「ご利用ありがとうございます」と礼をいいます。だが、機械にものをいわれ
ても全然ホッとしません。何気ない慈愛の一語が人間社会の特徴だといってよいのでしょう。
では自分の一言で相手をホッとさせることはできないものだろうか。
食堂などで勘定を払い、「ご馳走さん]と声をかけて出る人がいます。タダでご馳走になったわけでもないのにあの台詞は変だと以前は思っていましたが、店の人にすればあの一言で大いに救われるのかもしれません。
機会があったら訊いてみようと思います。
秋田の鹿角地方では、市役所とか道の駅などで出会う人出会う人が「ご苦労さま」と声をかけあう習慣があります。これが救いになる人もいるらしい。わたしは真似をして家へくる配達員などへ、ご苦労さんというようにしています。
でも相手がホッとしているかどうかはわかりません。
苦手なのは妻にたいして「ご苦労さん」だの「ありがとう」だの云うことです。なぜか云いにくい。他人行儀な気がします。ホッとするのは赤の他人に云われたときにかぎるのでしょうか。
人はとかく好意の出し惜しみをします。競争社会の弊害なのでしょう。
若いころからこのことに気づいていれば、わが人生はもっと充実していたかもしれません。後悔先に立たず、の一語の重みがひとしお身にしみる昨今です。