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2011年12月2日 2:57 PM

京都育ちの京都知らず

高校同期の2女性の案内役で京都で紅葉見物をしました。ウイークデーなのに名所旧跡はえらい人出です。それもほとんどがわれわれのような高齢者。老人はヒマなのだなあとまず感心したのです。、
 でも、考えてみると、ウイークデーである以上現役世代はみんな会社や役所や学校にいっているわけで、当然のことでした。土日のすさまじい混み具合は老人軍団に家族づれが加わって生じるようです。それにしても日本人の花見や紅葉見物好きには感心します。。
 わたしたちは南禅寺で湯豆腐を賞味し、永観堂、真如堂のコースをたどりました。どこの紅葉もも見事でした。なかでも永観堂の紅葉は焔の繁みが折り重なるようで、人々の顔が赤く染まって見えました。
「うわあ、きれい」「ひやあ、きれい!」「すばらしいねえ、京都は」
 つれのオールド女子高生たちはしきりに歓声あげていました。
  わたしはさほどでもありませんでした。。見事なのはたしかだけど、いちいち感嘆するほどではなかった。一度見てしまうとどこの紅葉も似たようなもんだとい うのが実感です。つれの女性たちがあまりに感極まるので、わざわざ東京方面からきたのだから、感動しないと損だという意識があるのかと思ったほどです。
 そうするうちわたしは桜や紅葉に飾られた名所旧跡にあまり興味のない男なのだと思い当たりました。南禅寺、永観堂、真如堂の由来さえよく知らないのです。一日出かけるからには由来をよく調べて訪れるほうが深く味わえるはずなのに、どうもその気になれません。
  わたしは京都で生まれ、小学校5まで京都で育ちました。6年のとき秋田県へ疎開し、そのまま高3まで秋田で暮らしました。大学のとき京都へもどり、卒業後 は大阪暮らしです。しかし後年8年あまりもKBSラジオのキャスターをつとめたし、現在も月に3度、書道の稽古に京都へいっています。
  わたしはまあ京都人のはしくれといっていいでしょう。ところが京都の名所旧跡をほとんど知りません。平安神宮とか清水寺とかごくポピュラーなのは知ってい るけど、ちょっと凝ったところは知らないのです。寂光院、三千院、貴船神社、鞍馬寺、上加茂神社など知っているのは、小学校の遠足や子供のころ父親に連れ て行かれたところばかりで、長じてから自分で興味をもって出かけたところはありません。
 梅原猛氏の著作などでさまざまな神社、仏閣の名と由来を知っても、特に用事のないかぎり足を向ける気になれないのです。
 大学のとき、著名な美学美術史の教授が、
‘「諸君はせっかく京都にいるんやから、もっと神社仏閣巡りをしたらどうですか。勿体ない」
 といっていました。
 わたしは反発をおぼえました。織田作之助のエッセイのなかに
 「神社仏閣になど興味はない。私は人間に興味があるのだ」
 というくだりがあって、それに共鳴していたのです。
  じっさい今考えてみても、寺社の壮麗な建築物も、当方に信仰心がない以上、壮大な抜け殻にすぎないと思えるのです。まことの信仰心がないかぎり、神社仏閣 も古いビルでしかない。「むかしの技術でよくこんなものを建てたもんだ」と感心はするけど、格別崇高な気分にはなりません。だから境内の桜や紅葉が見事で も、わたしはすぐに飽きるのです。花見にはまだしも飲めや歌えの楽しみがあるけど、紅葉にはそれもない。
 今回その感を強くしました。京都人は案外名所旧跡に足をはこばない。その由来にもくわしくない人が多いのです。神社仏閣にはいつでも行けるし、ご無沙汰しても消えてなくなることはない。信仰心がないのだから、いかねばならぬとも思わないのです。
 紅葉見物に来る人は他府県人が多いのだと思います。たびたび訪ねるわけにもいかないし、行かずにに終わると他人に遅れとったようなような、一種の義務感に駆られるのでしょう。
 多くの人々が信仰心をなくした現代、寺社仏閣はモニュメントでしかなくなったとわたしは思います。それでも信仰の対象だからというので、莫大な拝観料がありながら、課税されずに済んでいます。変だと思うのはわたしだけだろうか。