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2013年2月26日 5:42 AM

人生、なんとかなるもんだ

若者が就職難で喘いでいるそうです。正社員は夢の夢だの、何十社を訪問しても内定がとれないなどの話をきくと、自分のの若いころを思い出して感慨にかられます。
「アベさんは京大出やから就職難なんか関係なかったでしょう」
という人がいます。
だが、京大卒でもこちらは文学部の落ちこぼれ。大新聞社の入社試験は3~400倍の超難関で、最初から合格はあきらめていました。わたしが卒業した昭和32年には民放の求人もなく、出版社の求人もごく少数で、ほとんどの同級生は高校の教師になりました。 わたしは生意気にも高校というそれまで知り尽くした領域に入るのがイヤで、一般企業の求人をさがしました。だが、ほとんど求人はなかった。困りはてたものでした。
じつをいうと、わたしは日経新聞に狙いをさだめていました。3大紙はとても無理だけど,同紙ならなんとか引っかかりそうな気がして(日経のみなさん、すいません)、経済の本など読んで準備していたのです。
試験をうけたところ、デキがよかったので「これなら」とひそかに期待していました。
一次試験はパス、二次の面接試験も感触はわるくなかったのです。ひょっとしたらひょっとするぜ。わたしは大いに期待していました。
ある日、同紙の人事部の人がアパートへ調査にきました。普段の暮らしぶりなどを調べにきたのです。その人は京大の先輩で、わたしと会うなり、
「きみ、学科試験も面接試験も合格圏内なのに、クレペリン検査でなんでこんな出鱈目をやったんや」
と訊きました。
わたしは真っ青になりました。たしかに二次試験では面接のあと、そんなテストをしたのです。
クレペリン検査とは適性検査の一種です。用紙には1から9までの数字がランダムに横一列に並んでいます。そんな列が50行だか100行だかあって用紙を埋めているのです。
試験官の「よーい、はじめ」の掛け声で受験者は一斉に作業にかかります。
最初の列がたとえば137582・・・・だとすると、受験者は隣り合った数字の和を
二つの数字の間へ書き込んでゆくのです。
1と3のあいだには4、7と5のあいだには12と書くのです。簡単な仕事でした。
作業を始めて1分たつと試験官は「やめェ。次の行にかかれ」と号令します。
こうして受験者は2行め、3行目と足し算を繰り返し、一時間で終わるのです。
試験官は二次試験の受験者十数名の答案を集めて採点します。受験者が足し算をした各行の末尾を、一行目から50行目(100行目?)までつなぐと、一定の曲線が現れます。
たとえば受験者Aが第一列の10字まで足し算を終え、第二列は12字目、第三列は16字目までといった具合に作業のあとを残したとします。これは受験者Bが残した作業あととは違った曲線になります。採点側はA、Bのそれぞれ描いた曲線の違いによって記者に向いているかどうかを判断するのです。
わたしと同じアパートに田村弘さんという人が住んでいました。年齢はまだ30前で旧制一高、東大心理学科を出た秀才でした。彼は一年間だけわたしの出た高校の教師をしていました。わたしは心から尊敬し、いろいろ影響をうけた人です。映画の脚本家になるため京都に住んでいたのです。
その田村さんが日経紙の第二次試験にクレペリン検査があるときいて、
「こんなのが理想曲線だ。各行の足し算が合っているかどうかは調べないよ」
と教えてくれました。
わたしは大喜びで試験にのぞみ、足し算は滅茶苦茶で末尾をむすぶ曲線だけ理想の形に仕上げて提出したのです。
見事にそれがバレました。あとで調べたところ、クレペリン検査は何百人、何千人の受験者から10人、20人を選抜するときに行われ、そのときは各行の足し算が合っているかどうかはチエックしないのです。日経紙の第二次試験は十数名のうちから二、三人を落とすためのものだったので、足し算のそれぞれの和が間違っていないかどうかも調べたのでした。もちろんわたしは不合格になりました。
いきさつをきいて田村さんは、
「おれが余計な知恵をつけたばっかりに」
と落ち込んでいました。
がっかりはしたが、わたしは田村さんを恨む気にはなりませんでした。田村さんにはホント、筆舌につくせないほど世話になっていたのです。でも、若くして彼は亡くなりました。わたしは彼をモデルに青春小説を書く気でいます。
わたしは卒業の年(昭和32年)の一月になって、やっとレミントンランドという事務機の輸入販売会社に入社しました。セールスマンをやらされたけど、どこへいっても相手にされず、会社の目のとどかないのをいいことに、仲間と麻雀ばかりやっていました。
なんとも情けない日々だったけど、麻雀をやらない日は喫茶店で小説を書きいていました。良い修行になったのです。
日経新聞の記者になっていたら、わたしはどうなっていたでしょう。いそがしくて小説修行どころでなかったはずです。
なんとか小説で食えるようになったころ、週刊誌の依頼で松下電器のルボを書いたことがあります。その節松下幸之助氏にお会いしました。高齢だが、かくしゃくとしておられたので、いまでもよくおぼえています。
よもやま話のすえ松下さんは、わたしがどこの会社にいたのかと訊いてきました。わたしは最後につとめたタキロンの名を云いました。すると松下さんは、
「あんたがうちの社員でなくてよかった。うちの社員やったら次から次に仕事をさせるさかい、小説修行なんかするひまがなかったやろ」
と言ってました。
ふーん松下電器はそんなにきびしい会社なのか。わたしは感心し、同時に外資系会社のセールスをやったのが幸運だったと思いあたったのです。喫茶店で小説修行ができるなんて、わたしにとって最良の職場だったのです。日経紙やひょっとして松下電器のような超一流企業に入っていたら、なにも書けずに老人になっていたでしょう。
サラリーマン生活の最後につとめたタキロンは上場企業です。そこへ途中入社するまでわたしは社会の最底辺にいました。文字通り食うや食わずだったのです。
就職難は現在に劣らぬほどでした。でも、人生なにがどう転ぶのかだれにもわかりません。セールスの仕事をサボって売れない原稿を書いていたのが、わたしにとって幸いでした。おかげで首尾よく小説家になりました。が、人生良いことばかりはつづきません。いい年をしてわたしなんか、いまだに不安定な暮らしなのです。ただ、どん底にいるときも、その立場を逆用して良い風向きに変え得ることはたしかなようです。