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2011年6月24日 2:23 PM

停電

電力需要のピーク、七月を控えて関西電力の八木社長が管区の府県に15%の節電を要求しました。定期検査のため現在休止中の原子炉が再稼動できない場合、節電がないと大規模停電が起こるということのようです。
原発依存度をさげ、徐々にでも新エネルギーへの転換をはかるべしとする橋下大阪府知事は、根拠不明として協力を拒否ししました。原発は将来も電力供給の機軸とする関電側との正面衝突したわけです。
国のエネルギー政策をめぐって議論する素養はわたしにはありません。だが「停電」の脅しにはうんざりです。わたしは午後と深夜に仕事をする習慣で、40余 年間それでやってきました。深夜は意識の集中を乱されることがなく能率が上がります。深夜停電となると、高校時代を思い出してなんだか切なくなるのです。
秋田県の田舎町にわたしは下宿していました。三年生の冬は受験勉強の最中でしたた。ところが、吹雪の夜しばしば停電したものです。電線に雪が積もるせいら しい。わたしは三畳間にコタツをおき、板の上敷きをおいて勉強していました。吹雪の夜は窓の隙間から寒風が容赦なく吹き込んでくる。そこへ停電。まったく 田舎は不便だと呪いながらわたしはロウソクに火をつけて勉強を続けました。ペンでノートをとるのですが、寒いのでインクが凍ってきます。インクに浸したペ ン先のインクが凍って記入できなくなる。そのつどペン先をロウソクの焔にかざして温めて記入をつづけました。みじめな気持ちよりも「がんばってるなあ」と いう悲壮感があって、悪くない時間でした。
停電ー暗闇といえば戦時中、住んでいた京都の夜景を思い出します。当時は灯火管制といって、明かりは 一家に電灯が一つずつ。電灯の笠に幅1~2尺の黒布をかぶせて光が外部に漏れないようにします。電球の光は筒状に下を照らすだけで拡散はしません。ネオン などはむろん禁止。街灯もなし。街は黒一色で寝静まり、敵機に発見されないよう息をひそめたのです。
ある晩町内会の役員のおっさんが近所の家の 前で「こらあ、この非国民、明かりがもれとるやないか」と怒鳴り声をあげました。その家の大学生が読書する電灯の明かりが外へ漏れていたらしい。おっさん と大学生は口論のすえ、取っ組み合いになりました。ところがその学生は柔道の有段者だったのです。おっさんはたわいなく投げ飛ばされ、目をまわしました。 そのおっさんは役員の威光をかさに威張り散らしていたので、近所の人々はひそかに快哉をさけんだものです。
秋田へ移ってから、昭和20年8月15日天皇の放送があって日本はアメリカなど連合国に降伏しました。大人も子供も悲嘆にくれ、これから日本の国はどうなるのかと、暗い電灯のもとで語り合いました。そのとき一緒にいた叔母が
「戦争が終わったんだから、もう空襲はないよねえ」
といって灯火管制の黒布を電灯からはずしました。
パッと家中が明るくなりました。まぶしくてみんな声もなかった。戦争が終った、平和な時代が来る。そのよろこびと安堵があの明かりにはあふれていました。 日本がどうなるかまだわからないが、とりあえず戦争は終ったのだ。バンザイをわたしはさけびたかった。大人たちに遠慮して実行はできなかったけど、バンザ イ、バンザイが本音だった。電灯の正味の明かりは暗い時代を一変させました。
その後わたしたちは暗闇に悩まされつことはなかった。昭和48年の オイルショックのときも節電がさけばれ、深夜放送やプロ野球のナイトゲームが中止されたりしたが、停電にはいたりませんでした。日本はさぞ暗くなっている だろうと予想して帰国した人々が、相変わらずネオンに彩られた街を見て拍子抜けしていました。わたしも後年ヨーロッパや香港などに旅行して夜のパリやロン ドンが意外に暗いこと、香港などの毒々しいネオン街を見くらべて、ギンギラのネオンは後進性のあらわれだと感じたものです。日本の夜ももっとおだやかにな るべきだった。
昭和61年チェルノブイリで原発事故の起こったころと思うけど、当時大阪府議だった山本健治氏と敦賀の美浜原発を見学にいったこ とがあります。見た目は近代的な施設でケチのつけようがなかった。だが、案内の関電社員と山本氏は原発の必要性をめぐって2時間ほど真剣な議論を交わして いました。山本氏は原発抑制論者。わたしはだまってきいていただけですが、いま思えば山本氏の論が正しかったわけです。でも関電社員の必要論も経済の見地 からなかなかの説得力をもっていました。
いまその関電は脱原発の世論を押さえようと懸命の努力をしています。廃炉に巨額の費用を要すること、二 酸化炭素削減の大方針に反することなどが理由のようです。たしかに停電は困る。わたしの個人事情でいえば仕事にさわるし、わが家もオール電化になってい る。クーラーが使えないと、健康を害する恐れもあります。。
だが、過去の停電や灯火管制を振り返ると、少々の停電がなんじゃいという気持ちにな る。15%節電が守られず停電がじっさいに起こったとしても、われら戦中、戦後育ちはさほどおどろきはしません。われわれに辛抱できるなら若い世代にもで きないわけはなかろう。脅しに乗らず、国のエネルギー政策の転換のチャンスを逃すべきでないと思うのです。