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2012年1月13日 3:00 PM

八百年前、天皇は政治改革をやった。

  松井一郎大阪府知事が退職金7割削減を表明しました。規定では4176万円支給されるのを一気に629万円に引き下げるらしい。人件費削減の範を示そうというわけです。
  橋下徹大阪市長も退職金50%減を表明、市職員の人件費20%削減計画の本気度を示しました。同市長は知事の任期一日前に辞任して退職金を2000万円以 下におさえています。市長の給与や賞与も大幅にカットするのでしょう。大阪市の職員の給与は日本一といわれるから、まず自身の給与をカットしてみせたので す。
 いかにも市民、府民受けを狙った措置のようで気恥ずかしい感はあるけど、当然入るべき報酬をすすんで削るなどなかなかできることではありません。国会議員数の削減も公務員改革も一向に推進できない政府の醜態にくらべてどれだけマシであることか。
 改革を安直に口にする輩は多いが、橋本氏と維新の会には並外れた実行力があります。彼の説く大阪都構想には民主主義というシステムの制度疲労を問い直す作用があって、期待を抱かせます。改革は八分どおり実現するのではないでしょうか。
 わたしは現在、建武の中興に興味をもっています。十四世紀の前半、後醍醐天皇を中心に楠木正成、新田義貞、足利尊氏、高師直らが入り乱れて覇権を争ったあの時代でです。
 平安時代に成立した荘園制度が武士の進出により崩壊しかけて、国中が混乱していました。そこへ後醍醐帝が即位し、天皇親政を実行して秩序の回復をはかりました。武士を排除し、貴族の権威を復活させようとしたのです。
  ところが鎌倉幕府がなにかと天皇の邪魔をする。天皇は側近の重臣とはかってひそかに倒幕運動に着手します。だが、計画がもれて幕府は天皇側近の重臣たちを 逮捕、処刑したり追放したりします。倒幕運動は挫折したが、天皇はそれでも運動をやめません。幕府はそこで天皇を隠岐島に流してしまいます。
 そのうち天皇の檄に応じた楠木正成が挙兵し、足利尊氏、新田義貞らが決起して鎌倉幕府を滅亡させてしまいました。
  後醍醐帝は京都に復帰し、天皇親政を再開します。だれはばかるところのない独裁です。数々の改革を後醍醐帝ななしとげました。人員整理だの経費削減だの行 政改革だの、今日でも通じる施策を実行したのです。とくに門閥や家格にこだわらぬ能力主義の人事政策は、後世から見ても画期的な実績でした。
 ところがこれがかえって人々の反感を生みました。門閥、家格は当時の人々の重要な価値基準だったのです。加えて天皇は好き嫌いの情が強く、依古贔屓が多かった。おかげで天下はまた乱れ、楠木正成、新田義貞、足利尊氏、高師直らが入り乱れて死闘を演じます。
 結局後醍醐天皇の独裁は二年しか持ちませんでした。改革の難しさはすでに八百年の昔、証明されているわけです。後醍醐天皇の情念が気ままに発揮されたのが失敗の最大の原因だったあたり、現代人にも良い勉強になると思われるのです。
 わたしたちは小学校の歴史で楠木正成を随一の忠臣、日本人の鑑と教わりました。反対に足利尊氏は逆賊の首魁でした。明治政府が天皇制の強化のためそんなレッテルを貼ったのです。
 楠木正成はほんとうに忠義の念から後醍醐帝を支えたのか、諸改革に賛成だったのか、それとも他の豪族と同様権力志向から戦ったのか、そのあたりを調べて書いてみようと思います。わたしなりの視点で後醍醐帝、正成、尊氏らの人物像を描きだしてみたい。
 昨今の改革ばやりの世相と重なり合ってオモロイものが書けそうな気がします。
「あーあ、こんな世の中、やってられんわ」
と大阪弁でボヤく正成なんてちょっと愉快ではないだろうか。
発表の当てはまだありませんが、なにかしかるべき手段を考えます。
 橋下氏の政治手法は独裁的だといわれます。だが、現代の内閣よりもはるかに大きな権力を握ったした後醍醐政権でも、独裁をつらぬくのは至難でした。改革に独裁は有効だが、権力保持にはむしろ有害なのです。橋下市長がそんなことに気づかぬわけはない。
 ともかく当方は書くものの改革を心がけます。今年もシンドイ年になりそうです。