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2012年5月4日 3:10 PM

初めて見たプロ野球。人間機関車藤村富美男

 昭和23年の5月、わたしは生まれて初めてプロ野球を見ました。カードは阪神タイガース対金星ゴールドスターズ。手元に記録がなく、あやしいのですが、場所は盛岡の県営球場だったと思います。
 わたしは中学3年生。義理の祖父につれられて、故人となった同い年の従兄弟と一緒に、秋田県の田舎から泊まりがけで見物にゆきました。
  球場へ着くと、金星の選手たちが打撃練習をしていました。グラウンドを一望してわたしは別世界へきたような、胸のすく歓喜にかられました。空は快晴。ユニ ホーム姿の選手たちが眩しいほどカッコ良かった。男たちがもっとも男らしく生きている世界! そんな現場に来あわせた歓喜にふるえたものです。
  ラジオとニュース映画それに雑誌のグラビアでしかプロ野球選手に会えなかった時代です。生まれたときからテレビでプロ野球を見て育った世代の人にはとても 想像のつかない衝撃でした。 グラウンドではやがて阪神の打撃練習が始まりました。わたしは小用をたしにネット裏のトイレにゆきました。いまでは信じられ ないことだけど、ネット裏のすぐ近くに農家があり、そこの縁側で練習を終えた金星の選手たちが休息していました。
 うわあ西沢がいる。坪内もいる。スタルヒンも清原(のちの清原和博とは別人)、濃人もいる。わたしは呆然と直立し、野球雑誌で知った選手たちに見とれていました。
  すると当時金星一のスターだった西沢道夫一塁手がなにかの用事で庭へ降り立ち、わたしのそばを通ってネット裏へ向かいました。しかも彼はわたしとすれ違い ざま、無言のまま大きな掌をわたしの頭にドシンとおいてから通り過ぎたのです。衝撃でわたしは目がくらみました。もちろん痛いどころではない。感激して彼 の長身を見送りました。長じて頭髪がうすくなったのはあの衝撃のせいかと思われるくらいです。
 試合がやがて始まりました。阪神の投手は野崎。金星はサウスポーの内藤でした。一番目についたのは阪神のサード藤村富美男と前記の西沢道夫でした。どちらも4番打者。ホームランは出なかったけど、藤村は右中間3塁打、西沢も2安打したはずです。
  長身の西沢は守備もカッコ良かった。だが、藤村のプレーのほうが強烈な印象でした。チーム一番の大型選手で、打球にたいする突進の凄まじさはまさに人間機 関車でした。強肩かつ俊足。バッテイングは有名な「物干し竿」を振り回して豪快そのもの。後年陸上競技の三冠王ザトペック(チエコ)が人間機関車と呼ばれ ましたが、藤村のほうが本物だとわたしは思っています。
 長じてのち新聞記者の友人から「藤サン神話」をよくきかされました。
 雨で試合が流れた翌日、記者たちと昨日はなにをしていたかという話になりました。
「わし、映画見てきたわ」と藤サンが言います。
 なんという映画ですかと記者が訊くと、[夜のゴン太」と彼は答えました。「ゴン太」とは大阪弁で腕白坊主という意味です。
[夜のゴン太。そんなのあったかなあ」
 記者は新聞の広告欄を調べて大笑いしました。[夜のゴン太」は正確には[夜のタンゴ」だったのです。
 ある日藤サンは新聞社へ何かの用事であらわれました。そして記者たちが記事を電話草稿するさまを興味深く見ていました。
 その夜彼はテレビのスポーツニュースに出演しました。見ていた記者は唖然としました。藤サンは
 [あの場面のミツブリは」とか「あそこでヨツダマとはねえ」などといっているのです。
 「ミツブリ」は三振、「ヨツダマ」は四球のことです。記者たちは電話送稿のさい、聞き違いのないようにそんな語を使うのです。藤村はそれが正確な言い方だと誤解してテレビで口にしたわけです。
 みんな笑い話にするけど、藤サンを悪くいう人はいませんでした。野球一筋。表裏のない実直そのものの人柄だったのです。
 彼が引退して何年かたったころ、わたしは取材で彼に会ったことがあります。扇町の水道器具会社に彼はつとめていました。
 夕刻指定された時刻にわたしはその会社を訪ねました。社員はみんな帰って、ガランとしたオフィスで彼は待っていました。
「どこかで食事しながら話をきかせてください」
 わたしがいうと、ちょっと待ってくれと彼はいいます。今日名古屋へ出張したけど、まだ社長に報告してないからというわけです。社長は不在でした。もうすぐ帰ってくるはずだそうです。
 30分ばかりして社長は帰っていました。藤サンは社長室に報告に行き、すぐに終わって出てきました。なんだかわたしはさびしい思いにかられました。往年の大選手もいまはヒラ社員とさほど変わらぬ処遇をうけているようです。
 わたしたちはタクシーで北新地へ向かいました。何か食事の希望があるかと訊いたところ、ある有名なしゃぶしゃぶ屋を彼は指定しました。
 そこで話を聞きながら食事しました。藤サンはもう老齢でしたが、あっという間に三人前を平らげてサスガと驚嘆させられたものです。意外にも彼は下戸でまったく飲みません。
 終わってわたしは当時北新地でも指折りの高級クラブへ彼を案内しました。当時わたしも景気がよくて「夜の商工会議所」と言われるそんなクラブへ出入りしていたのです。
  中央に広いダンスフロアがあり、壁に沿って椅子テーブルの並んだ華やかな店でした。数人のホステスに囲まれて藤サンは壁を背にして腰をおろしました。その 姿を見てサスガ大スターとわたしは感嘆しました。財界のお偉方が愛用するそんな店で彼はすこしも位負けしません。堂々の貫禄ですわっています。ホステスと の会話も軽妙です。
「お、藤村やないか」「そうや。藤村がきてるぞ。なつかしいなあ」
 そんな雰囲気で財界のエライサンたちが次々に藤サンと握手しにきました。みんな少年時代、彼のプレーにあこがれ、元気づけられた思い出があるのです。関西の復興にどれだけ藤サンが貢献したか、骨身にしみてよくわかりました。
 その後何度か彼に会って話をききました。晩年の彼は不遇でさびしそうでした。富裕な財界人はなんで彼をほうっておくのか。恩返しをしないのかとわたしは何度も思いました。
 十数年前、亡くなる寸前にわたしは会いにゆきました。彼は重度の糖尿病で膝から下が青黒く変色していました。
「もう甲子園でお会いすることもないやろなあ」
 力なくいう彼にわたしは懸命に気休めを述べて帰りました。
 初めて見たプロ野球。人間機関車藤村富美男。若葉の頃になると藤サンを思いだします。それにしても世間は往年の名選手に冷たい。掛布雅之はいまどうしているのでしょうか。