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2014年4月8日 1:52 AM

女は昔から強かった

 鎌倉時代を調べていてオモロイ話を見つけました。源頼朝が鎌倉幕府をひらい

たころ,一族に新田義重という人がいました。義重は八幡太郎義家の子孫で、
後年鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の祖先にあたる人です。
頼朝は義重の娘に恋をしてラブレターを出しました。これを知って義重は困惑
しました。頼朝には北条政子という正妻がいます。(当時、女性は結婚しても
実家の姓を名乗りました)政子は名だたる猛妻です。恨みを買ってはのちにど
んな仕返しをされるかわかりません。義重はそこで大急ぎでその娘をほかの御
家人へ嫁がせてしまいました。
ちなみにこの娘は頼朝の異母兄、源義平(悪源太)の未亡人でした。よほどの
美女だったのでしょう。
ふられて頼朝は怒りました。重臣の義重に因縁をつけて幕府に出入り禁止にし
たのです。義重は領地の上野国にかえり、二度と重用されなかったようです。
それから150年の歳月が流れ、後醍醐天皇が幕府討伐の乱を起しました。上野
国の豪族新田義貞は天皇の檄に呼応して兵をあげ、鎌倉へ進撃、幕府を滅亡さ
せたのです。
建武の親政が始まりました。義貞は親政誕生の功労者として貴族の官位をあた
えられ、大大名に出世しました。
ところが同じ源氏一族の足利尊氏と反目し、ついには天皇に反旗をひるがえし
た尊氏と戦う羽目になりました。天皇方には義貞を初め楠正成、名和長年、千
種忠顕、結城親光などが顔をそろえます。だが、一般の武士の人気は尊氏がは
るかに高く、ついには天皇方は破れて尊氏が室町幕府をひらくにいたります。
乱の終盤、天皇方は京都で尊氏方に大勝し、尊氏は九州へ敗走しました。
この機を逃さず追撃すれば天皇方が圧勝したはずですが、総大将新田義貞は

追撃を一か月日延べしました。女が原因です。
戦勝のご褒美に後醍醐天皇は可愛がっていた勾当内侍という女官を義貞に「払
い下げ」したのです。
義貞は宮廷文化に憧れていました。平家が公家文化に取り込まれて弱体化した
ように、公家衆と交わって上流社会の実感に浸っていたのです。
天皇下げわたしの女官。義貞は感激しました。さぞ美しく、教養豊かな女性だ
ったのでしょう。あまりに愛しくて離れられなかった。つい出陣を1か月遅ら
せたのです。この間に尊氏は陣容をととのえ、大軍をひきいて関西へ攻め登っ
てきました。いそぎ出陣しましたが、天皇方は破れ、後醍醐天皇はまた京都か
ら逃げ出し、尊氏は室町幕府をひらいたのです。
太平記の世界では要所要所で女性が大局を左右する大きな役割をはたします。
後醍醐天皇の最初の討幕計画がばれたのも土岐頼員の新婚の妻が密告したせい
だし、天皇の寵姫阿野廉子が大塔宮の謀反をでっちあげて失脚されたりしまし
た。足利尊氏の妻は尊氏が側室に生ませた子を認知せず敵にまわしています。
その他いろんな女傑の話があります。なんせ後醍醐天皇には皇子18人,皇女18
人、計36人の子があったものすごい時代なのです。女性はただ男のいいなりに
なっていたとわたしも思っていたのですが、間違いでした。
みんなの党の党首、渡辺喜美氏の退任劇を見て、鎌倉時代をわたしは連想した
わけです。世の中あんまり変っていないようですな。