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2011年7月29日 2:26 PM

小松さんのこと

月曜(25日)から3日つづけて、くろだクリニックで抗生物質の点滴をうけました。おかげで熱がさがり、入院は避けられた模様。一安心しましたが、まだ微熱があり安静確保が至上命令。酒はいっさい禁止。月曜までしんどい日々がつづきそうです。
昨日の午後、小松左京さん逝去のニュースをテレビで知って大きなショックをうけました。最近具合がよくないときいていたけど。あの明朗で闊達、知的エネル ギーにあふれた文豪がいつまでも沈黙をつづけるわけがない。そのうちスケール大きな新作をもってふたたび世間を驚かせるのだろうと思っていました。享年 80歳。わたしより3つ年上です。おたがい何が起こってもおかしくない年齢だけど。小松さんについては私は永遠に元気な大作家のイメージしか湧いてきませ ん。
目指す方向がちがうのでわたしは小松さんにさほど親しくしてもらってはいませんでした。
わたしが昭和43年にサラリーマンをやめ 物書きになったころ、小松さんはすでにSFで一家をなしていました。SFのほか放送台本や漫才の台本を書いたりして、多方面で活躍していました。わたした ちが同人雑誌で修行しつつデビューの気をうかがっていたときに、小松さんはすでに八面六ぴの奮戦中だったわけです。
初めてお会いしたのがいつだったかよくおぼえていません。なにかのパーティのあと北新地のどこかの飲み屋だったと思います・
小 松さんは陽気にしゃべり、陽気に笑っていました。小説家はどちらかというとウツ傾向の人が多いのだけど、小松さんは巨躯を揺すり、ギャクを連発しエネル ギッシュで周囲を飽きさせない。信じられないほどの博識で科学技術から歴史がら経済から地質やエネルギーにいたるまで話題は止まるところを知らず。文学青 年出身のわたしは大いに気を呑まれ、小松さんがSFに行ったのは膨大な知識と発想力がリアリズムの小説世界には収まりきれなかったのだと理解したもので す。
一度カラオケをご一緒したことがあります。わたしは驚嘆しました。小松さんは日本の歌はもちろん、ジャズ、シャンソン、カンツオーネ、タンゴ、ファドなんでもござれ。博覧強記ここにきわまる感じでした。これは敵わん。喉自慢のわたしはしみじみ脱帽しました。
い つだったかわたしは小松さんに「なんでイタ文にいかはったんですか」と訊いたことがあります。小松さんは京大のイタリア文学科出身、わたしは仏文出身なの です。フランス文学はバルザック、ゾラ、スタンダール、マルロー、サルトル、カミュなど研究対象の大作家が大勢いて学生数も多かった。だが、イタリア文学 は日本で知られた作家がほとんどおらず、学生数もすくなかったのです。
「映画やがなアベちゃん、シルバーナ、マンガーノやらヴィットリオ、ガスマン、苦い米。自転車泥棒ー」
小松さんは応えてくれました。
なるほどなあ。わたしは腑に落ちました。わたしたちが大学へ入った時分はイタリア映画の全盛期。カラーのアメリカ映画を問題にしないモノクロのイタリア映 画が市場を席捲していました。小松さんは文学のみでなく、名画をつぎつぎに生み出すイタリアとその文化に興味をもったようです。たんなる文学青年とちがっ た視点を当時からもっていたわけです。
大ベストセラー【日本沈没」が上梓され映画化されたころ、小松さんはこんな話をしていました。
ある晩小松さんは京都で飲み、遅くなってタクシーで大阪へ向かいました。途中運転手が【日本沈没」を話題にし、大いに感心したということなので、
「じつはあの話わしが書きましてん」
と小松さんは名乗りをあげたそうです。運転手は仰天し、かつ狂喜し、サインを求め、運賃は半額でよろしいと申し出たそうです。むろん正規に支払いはしたが、長年物書きをやってるといろんなことがあるなあと小松さんは笑っていました。
わたしが直木賞をもらったときパーティの席で小松さんは
「アベちゃんは京大出の初の直木賞作家です」と挨拶してくれました。あんなうれしい祝辞はなかった。日本文学では異端だったのでに小松さんは直木賞に縁がなかったけど、彼が司馬遼太郎、黒岩重吾、田辺聖子に匹敵する関西の文豪であることはたしかです。
訃報に接してつくづく思うのは小説家の晩年の寂寥です。健康に問題があったのでしょうが小松さんはここ数年あまり仕事をされたいなかったようです。ある パーティでお会いしたとき見違えるほどやせておられておどろきました。ダイエットの成功かと喜んだのですが、見当外れだったようです。
葬儀は身内だけで済まされたそうです。葬式の簡素化はわたしも大賛成です。だが、敬愛する人物にお焼香するチャンスのないのはいかにも残念。「偲ぶ会」があるのだろうとは思うのですが。