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2013年2月19日 2:13 AM

往復ビンタをまぬがれて

体罰談義が花盛りです。全面禁止とあって困惑する向きもあるようです。柔道家の友人の話では、練習中殴られるのは日常茶飯事だった そうですから。
わたしの小学校時代は、殴る先生は珍しくありませんでした。男の先生全員といってよいくらいです。が、むろん例外はありました。
北白川国民学校の5年生イ組の担任だった戸塚先生は、20代後半の予備役の伍長だったけれど、一度も生徒に手をあげたことはありま せんでした。対照的に隣のロ組では、担任の石黒先生がやはり予備役の伍長か上等兵だったけど、なにかというと生徒に平手打ちを食わせ るので有名でした。
北白川国民学校は当時一学年200名。イ組ロ組が男でハ組ニ組は女でした。イ組のわたしたちはときおりロ組の生徒が石黒先生にしご かれているのを目にしたものです。
運動場でロ組の生徒が2列に並び、一列目と二列目が互いに向かい合います。そして石黒先生の「始め」の号令で、互いに向かい合った 生徒に平手打ちを食わせるのです。わたしが1列目の一番だとすると、2列目の一番の生徒を力一杯平手打ちし、わたし自身も叩いた 相手から平手打ちを返されるのです。ついで一歩横に動き、向かい合った2列目の二番の生徒を平手打ちします。向こうもわたしにお返しをく れます。ついで2列目の三番、四番、五番と順に叩き、当方も順番に叩かれて、結局2列目の25名の生徒全員を叩き、全員に叩かれる羽 目になるのです。正確には意味が違うのですが、わたしたちはこの体罰を往復ビンタと呼んでいました。
その様子を校舎の2階から見ていると、約50名の生徒が輪になって、往復ビンタを交換しつつぐるぐると大蛇のように回っているようで、気の毒でなりませんでし た。連帯責任をとって全員が罰を食らい、罰をあたえるという主旨だったようです。
罪もない相手を叩くのだから、だれもがつい力を緩めます。すると石黒先生が、
「こら、気合を入れんか」
と怒鳴ってやり直しをさせるのです。
現在なら考えられない仕打ちですが、疎開先の秋田の国民学校でも一度順番往復ビンタをやらされたから、標準的な体罰の方法だったの でしょう。
わたしたちのイ組の戸塚先生はそんなことをしませんでした。ロ組の生徒が校庭で順番往復ビンタをとられるさまを私たちとともに見て、
「オモロイことをやっとるなあ」
と笑っていました。
でも、かれは絶対にその懲罰法を採用しなかったし、担任の生徒を殴ったこともなかったのです。予備伍長にふさわしく男らしい元気な 先生でしたが、紳士であり、やさしい人でした。小学校時代の先生でなつかしく思い出せるのは戸塚先生ただ一人です。あとは1年生の年から4年生の年まで女の先生が担任で、わたしは叱られてばかりいました。
6年生の8月に戦争が終わり、、平和な時代になりました。戦争の反動で暴力は差し止められ、先生方はすっかり萎縮して生徒を叩かな くなりました。わたしは疎開の流れで秋田県大館市の旧制中学へ入ったのですが、5年生には予科練(少年航空兵養成機関)帰りの猛者が多 数いて、なにかというと下級性を集めて気合をいれたものです。だが、暴力禁止令が出ていたらしく、殴られることはありませんでした。
一度だけ下級性が全員講堂に集められて何十回も腕立て伏せをやらされたのを覚えています。つらくて泣き出した者もいました。2年生以上の者は戦時中先生や上級生にさん ざん殴られたらしいので、その意味でわたしたちはめぐまれていました。
高校でわたしは野球をやりました。ここでも殴られた経験はありません。桜ノ宮高校のバスケ部の主将のようにコーチから殴られていたら、 わたしならどうしたろうか。すぐに退部したはずです。ほかに選択肢は考えられません。
こうしてわたしは体罰の経験なく年齢をかさねました。そしてここ数年、世の中の活字離れも手伝ってほとんど書く場をあたえられぬ歳月を送っています。実力不足が原因とはいえ、まことに不本意な日々で、精神的体罰を受けている思いです。
ここへきてこんな罰をうけるとはまさしく「想定外」でした。でも、退部するわけにはいきません。辛抱する以外にないのです。
この種の精神的体罰への最良の対策はSMのMになることだけど、それもみっともないしなあ。逆襲の日にそなえてひそかに爪を磨いています。