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2013年3月18日 11:12 PM

悪臭を芳香に変える楠公さん

楠木正成のこもる赤坂城へ幕府の大軍が押し寄せたさいの、楠木軍の戦法はあまりにも有名です。断崖をよじ登り塀にとりついた幕府軍の兵にたいして、楠木軍は岩石や材木を投げおろし、熱湯や糞便を浴びせかけ、はては糞便を煮立ててあびせかけたのです。
煮立てた糞便とはすごい。武士道に沿った矢合わせや名乗りあっての一騎打ちが売り物だった幕府軍はさぞ面食らったことでしょう。読んでいるわたしたちもその悪臭まみれのう戦闘場面にへきえきしてページをとじたくなります。
話は変わりますが、わたしは飼い犬のビーグル犬「ラビ」をつれて毎日7000歩から10,000歩をウオーキングします。「ラビ」は飼い主のわたしが云うのもナンだけど、稀にみる器量良しで、可愛い、可愛いと友人、知人の人気者です。その「ラビ」がウオーキングの途中よその犬の排泄物があると、すぐに顔を近づけて匂いを嗅ぎます。あわててわたしはリードを引いて遠ざけるのですが、ふっと赤坂城攻防戦を思いうかべました。
人間はいつから人間の排泄物に怖気をふるうようになったのでしょう。赤坂城の時代は、糞便は大切な肥料でした。京都近郊の農民は町家へ料金を払って汲み取らせてもらったらしい。汲み取り料を払う側がのちの世とは逆だったのです。
幕府軍は糞便を浴びせられて閉口しました。当時からそれは汚いものであり、同時に貴重な肥料でもありました。
いや、そんなに昔のことではありません。わたしが小学生のころ、住んでいた北白川界隈にはたくさんの畑地がありました。当然、肥溜めもありました。ある日、子供が誤って肥溜めに落ちて死んだというニュースが流れ、
「うわあ、犬死にやなあ」
とわたしたちは顔をしかめて云いあったものです。
排泄は自然の営みです。なんで人間だけが排泄物を嫌悪するのでしょう。わたしはこのテツガク的命題について考えこみ、本日結論を得たのであります。
人間には向上心があります。生まれつき以上の能力をもちたい。一歩でも神に近づきたいと思って努力します。だが、人間はいくら足掻いても生理の枠から出られません。いくら能力を得たとしても人間の半面は動物であり、動物であることを万人がまぬがれないのです。
たとえばわたしが一生懸命小説を書いているとします。その間わたしは自分の能力に自惚れています。ひょっとして名作が書けるのではないかと高揚感にあふれています。そのとき便意をもよおしてトイレに立つときは、なんとも時間が惜しい。人間であることがつくずく情けなくなります。せっかく人間以上の存在になったつもりで乗りに乗っていたのに、自分が半面バカな動物にすぎないことを思いだしてしまうのです。
排泄物に対する嫌悪感はこんなところに原因があるのではないでしょうか。人間には崇高な側面は数多くあります。だれだって知的な作業に没頭しているときは、人間以上の存在になった気でいられます。だが、排泄という行為によって現実に引き戻される。そこから嫌悪の念が生まれたのではないでしょうか。
そんな意味で排泄とセックスは同次元にあります。でも、セックスについて人は甘美な夢を見るのに、どうして排泄はダメなのだろうか。
肥溜めに落ちて死んだ子供を、
「犬死にやな」
などと云っては犬が気をわるくするかもしれません。
それにしても楠公さんは偉大です。悪臭のなかの合戦を忠君愛国の聖戦に変えてしまうのだから。