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2013年11月5日 12:14 AM

楽天に大義あり、日本シリーズ

本年の日本シリースは周知のように楽天イーグルスが4勝3敗で日本一になりました。優勝決定の4日夜以後は、テレビはそろって楽天バ ンザイの大騒ぎ。まるで日本中が東北地方になったような雰囲気です。巨人贔屓のわたしも、敗れてさほと残念には思いませんでした。
大きな理由は2つあります。一つはイーグルスが優勝未経験の唯一の球団だったこと。もう一つは東北大震災の被災地を応援したい気持が 一般人にあったことです。

世の中はつねに改革や刷新を求めます。イーグルスは球団創設9年目。近鉄、オリックスの合併により生まれた当時は、目も当てられぬほど弱かったのです。両球団の合併により余った選手、それに各球団から寄付された選手を主力に編成されたのだから、強いわけがありませ ん。100敗の予想は外れたものの、結局26勝97敗一分けで8月中に最下位が決定したのです。シーズン初めには0対26でロッテに 敗れるプロ野球記録を打ち立てたほどです。

それが9年後のいま、リーグ優勝はおろか日本シリーズ優勝です。関係者やファンの感慨はいかばかりか。スタンドの熱狂ぶりは甲子園の 巨神戦をかるく上回っていました。
もう一つの勝因はイーグルスに大義があったことです。

わたしを含めて多くの人が被災地の復興になにか役立ちたいと思いながら、結局なにもできずに今日に至りました。せめてイーグルスの勝利によっていくらか東北を活気づけたい。そんな願いが多くの人の胸中にあったの です。

イーグルスの選手たちは人々の期待を背負って戦い、必死で勝利を掴みとりました。これに比べてジャイアンツには大義がありませんでした。40数年ぶりの連覇、の掛け声が人々の心の琴線に触れるはずがありません。田中将大投手に土をつけただけで上出来とするし かなかったのです。

むかしから天下分け目の戦いには大義のあるほうが有利です。後醍醐天皇を敵にした鎌倉幕府や足利尊氏は別系統の光巌天皇を擁立して賊徒の汚名を払拭しようとしたし、明治維新の鳥羽伏見の戦いは、薩摩藩の保持した錦旗が決定的に官軍を有利にしました。「被災地頑張れ」は 今日の、目に見えない錦旗だったわけです。
シリーズの1,2戦が終わった10月28日、川上哲治氏が亡くなりました。享年93歳。かつての名選手の訃報をきくたびに「赤バットの川上はどうしたのかなあ」と気になりましたが、ついに亡くなったと知って感無量です。
川上は戦後盛んになったプロ野球の大選手でした。わたしは秋田県の旧制大館中学2年のころから野球を始め、巨人ファンになりました。
戦争直後は東北地方も北海道もすべてジャイアンツの支配圏で、ほかの球団のニュースはないも同然でした。周囲も90%以上が巨人贔屓。私も例外でなかったのです。
その巨人軍の4番打者が川上哲冶。尊敬と云うより崇拝の対象でした。
敗戦で日本男子はみんな惨めな思いをしていました。私たち少年には日本の何もかもが貧弱で古臭く見えました。なかで川上は日本男子の 風格と落着き、力強さを表現するただ一人の存在でした。
打席に入るとピタリと赤バット構えたきり動きません。もちろん打席を外したりしません。静寂な青眼の構えそのものです。そして赤バッ トが閃くと、打球は「弾丸ライナー」となって右翼スタンドへ飛んでゆく。それが川上のイメージでした。
もっとも今日と違って映像で彼を見たわけではありません。新聞、雑誌、たまにニュース映画で見るだけです。打席を外さないのは確かだ けど、構えたあと素振りくらいはしたかもしれません。でも、わたしのイメージでは不動の構えから赤バットが一閃するのでした。打球はすべて弾丸ライナー。大学生になってテレビが普及し、たまにはナマで川上を見ることがあっても、かれのイメージは不変でした。

戦前から通算首位打者5回、打点王3回、本塁打王2回。すごい成績ですが、昭和23年、青田昇とホームラン王を争い、25本ずつでタイトルを分け合ったのが一番印象に残っています。
昭和24年にサンフランシスコシールズが来日、日本選抜チームにボロ勝ちして帰りました。アメリカ選手の中で川上の評価はあまり高くありませんでした。鈍足のせいだったのでしょう。でも、わたしたちには川上がNO1でした。まさに「打撃の神様」だったのです。
ホームランは青バットの大下弘のほうが数多く打ちました。華やかな選手は藤村冨美男、青田昇、与那嶺要、別当薫ら幾人もいました。だが、川上こそが戦後のスター選手の代表でした。のちに川上は長嶋茂雄、王貞治らをひきいて空前絶後のV9を達成しましたが、敗戦直後野球 少年だったわたしには、現役時代の川上のほうがずっと印象に残っています。同世代には同じ思いの人が多いのです。
なぜ川上は戦後のスター選手の代表なのか。それは前述したような、日本の古武士の風格と力強さをかれが表現していたからです。戦争で 日本は伝統的な価値基準をすべて破壊されました。なにもかもアメリカが最高。昨日までの敵を今日は手本にせよという世の中です。

日本 人はダメ。日本の伝統はすべて誤り。見捨てるべきだというのが当時の風潮でした。日本古来のものも悪くはないとは人々が口に出せない大義だったのです。
その中で川上は伝統的な日本の美、武士の風格、免許皆伝の腕前などを堂々と表現したのです。つまり川上は日本人が口に出せない大義を バッテイングによって体現していました。東北の被災地を元気づけたい、というのは2013年の日本の大義ですが、川上は敗戦に打ちのめされた日本人に、伝統的な価値尺度という大義を伝えていたのです。だれも気付かなかったけど、かれが衆望を担った理由はそこにある と私は思うのです。
東北、北海道ともかつては巨人軍の支配圏でした。だが、いまは楽天、日本ハムが本拠地をおいています。ジャイアンツの中央集権は終っ たのです。川上哲治氏はどう思っていたのでしょうか。

せめて今一度人前へ出て、統一球問題などを論じてもらいたかった。いや、生きて いるだけで、もと野球少年らにとっては「長生きの神様」になったでしょうに。