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2011年4月6日 3:09 PM

橋下ショック。先生たちもシンドくなった。

橋下市長の大阪維新の会が府議会で教育基本条例を成立させました。先生たちシンドくなりましたなあ。
これで府立高の学区制(現在4学区)が廃止され、府内の中学生は好きな高校へいけるようになりました。たとえばこれまで都島区や城東区、大正区などの中学生は進学校の北野高(第一学区)や天王寺高(第三学区)へいけなかったけど、今後は自由に通えるわけです。
あわせて3年連続で定員割れした府立高は、廃校になる可能性が大きくなることも決まりました。小子化の時代、あわてて生徒の確保に身をいれる府立高も出ているようです。
学区制は「競争の緩和」「地域密着」「通学時間の短縮」を目的に戦後採用されました。ところが歳月の経過につれて優秀公立高の進学実績が大きく低下しまし た。競争排除の悪平等主義の結果です。わたしの高校時代は東京の日比谷高など東大に100名前後の合格者を出していたのに、、近年は0にまで落ち込み、学 区制廃止後の昨年になってやっと30名まで盛り返したそうです。
公立高はダメだとなって進学志望者は私立に殺到、関西の灘高校や鹿児島のラサール高などの名声が高まるばかりでした。公立高の不振をカバーするために塾が繁盛し、受験競争はかえって激しくなっています。
このたびの教育改革で公立高の信用は回復に向かうはずなのですが、先生たち、なかでも日教組は大反対らしい。「君が代」斉唱時の起立を義務付ける条例よりも反発が強いということです。先生たち、これまでが天下泰平でありすぎたのではないですか。
わたしは旧制中学から高一まで4年間秋田県の進学高に通い、高二から卒業まで同じ地方の多少レベルの落ちる高校に通いましました。
進学高と平凡な高校の二つを見たわけです。
進学高は生徒の数が多かった。一学年300名程度。全校で1000名近い生徒がいました。担任以外の先生とは接触の機会が少なく、ほとんどの先生の人となりはよくわかりませんでした。
それでも万葉集の高名な研究者である先生、東京教育大出身の気鋭颯爽の先生がいました。当時は大学出ならだれでも教師になれた時代で、食糧難の東京から逃れてきた人がしばしばいました。彼らは教育に関係のないサラリーマン出身の先生だったのです
「慶応大学経済学部卒」と名刺に書いている先生がいました。「あれはちょっと変ではないか」とわたしたちはいいあったものです。
新婚6ヵ月で子供の生まれた人もいました。今日でいうデキ婚です。その先生が教室にはいってくると、わたしたちは
「6ヵ月、6ヵ月」
と手を打って囃し立てたものです。
すると敵もさるもの、
「このあたりじゃ赤ん坊は10ヵ月で生まれるかもしれんが、東京じゃ6ヵ月で生まれるんだ」
と切り返して、サスガ一流大出身とカンシンさせたものです。その先生は一ツ橋大の出身でした。
法政大野球部出身の先生がいました。子沢山で借りる家がなく、学校の宿直室に家族と住んでいました。仇名はカプケ。カビが生えるという意味です。
ある日宿直室のそはで悪童どもが声をそろえ「カプケ!」とさけんだところ、
「女房子供の前でそれをいうな」
と、すごい剣幕でカプケが飛び出してきました。わたしたちは笑って逃げましたが、激怒した彼の心情を思って忸怩としたものです。
ところが野球部の補欠のチームと教員チームの試合で彼はマウンドに立ち、さっそうと好投しました。カプケどころでなくわたしたちは拍手を送ったのですが、 途中彼のベルトが切れてズボンがずりさがったので大笑いしました。貧しくて彼は革ベルトを買う金がなく、藁なわでズボンをとめていたのです。
じっさい当時の教員の給料は安かった。自宅へ遊びにいくのが気兼ねなほどみんな貧乏だったのです。それでも進学校だけに、校内には向上心があふれていました。先生にも生徒にも、さほどではないにしろ「もっと成長しよう」という暗黙裡の合意がありました。
わたしが転校した平凡な高校はもと女学校で、進学志望の生徒は少数でした。生徒数わずか300だから先生は身近な存在で、人となりがよくわかります。ほと んどの先生はことなかれ主義で、まるで面白みのない人が多かった。進学高の先生と同じくらい貧乏だったけど、こちらは覇気がなくうすぼんやりした印象でし た。人生をあきらめた顔ばかりだったと思います。校内には無事平穏を最高とする、現状維持を旨とする暗黙裡の合意があったと思います。成長意欲のない高校 なんて存在する価値がありません。
生徒に目標がないと先生もつまらん男になります。すると生徒もますます無気力になる。学校は悪循環におちいり ます。わたしは長じてから平凡なほうの母校を訪問したことがありますが、教員たちは放課後、だらしのない服装で碁や将棋をやっていました。ふんぞり返った り足を投げ出したり、鼻歌をうたったり、民間のどんな企業にもないだらけきった雰囲気なのに唖然としました。
わたしは大学を出るとき、文学部なので教員になるくらいしか就職口がなかったのです。でも教員の資格はとりませんでした。知り尽くした学校という安穏な世界よりも、未知の世界で生きたかったからです。
後年、平凡なほうの母校を訪問したとき、教員免許なんかとらなくてよかったとしみじみ思いました。
灘高校など私立の進学高の先生は多忙で寝る時間も不足しているそうです。公立高の先生も、とくに若い先生はこれを機会に気合を入れなおしたらどうだろうか。若いころの苦労は買ってでもせよというのは間違いなく真理です。老人のわたしが保証します。