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2012年7月31日 4:50 AM

生き返れフジヤマの飛び魚

暑いさなか、オリンピックの競泳をテレビ見ていて北島康介の敗退にがっくりしました。もし彼がオリンピック3連覇をなしとげていたら、「フジヤマの飛び魚」古橋広之進に匹敵する大ヒーローになっていたでしょう。八方塞がりのこの時代にこそ、スポーツの英雄の出現を人々は待ち望んでいるのです。
北島の敗退に落胆するとともに、自分がもう何年も海にもプールにもいっていないのに気づきました。いやはや歳をとったものです。夏になっても泳ぎに行きたい気が起こらないなんて、ありえないことでした。
小学校3年の夏、わたしは泳ぎをおぼえました。京都北白川には子供向きの川があったし、泳げるようになってからは八瀬や南禅寺のプールへ遠征しました。南禅寺のプールは武徳会の練習場で、わたしたちは少年組の三級になりたくてせっせと練習したものです。武徳会流の平泳ぎ、抜き手、背泳ぎに熟達しました。もっとも後年、ハワイのホテルのプールで泳ごうとしたら、先客はすべてカッコいいクロールばかり。なんだか恥ずかしくて武徳会流は披露できませんでした。
少年組三級の資格をとるにはたしか遠泳3000メートルのテストがあり、6年生になったら挑戦する気でいました。ところが6年生寸前の春休みに秋田県へ疎開して、すべてご破算になったのです。
疎開してからは米代川の支流で泳ぎました。農村の子はほとんどが金槌で、浅瀬でバチャバチヤやるだけです。川に来ない者が多数でした。因縁をつけられたり村八分にされたりする心配なしに、いい気分で泳ぐことができました。
8月のある日わたしは秋田市の従兄弟の家へ遊びにゆき、街外れの海水浴場で泳ぎました。戦争が容易ならぬ段階へきて市民は海水浴どころでなかったらしく、海水浴場はガラ空きでした。
終わって従兄弟の家へ帰ると、ラジオのニュースが耳に入りました。昨日広島が米軍機に空襲されたということです。
「この空襲に敵は新型爆弾を使用せる模様なるも、わがほうの損害は軽微にして――」
原爆のゲの字もない大本営発表でした。こんな発表は初めてだったので、じつに不気味な、不安な気持になったものです。
数日後、わたしはいつものように村の川へ泳ぎにゆきました。1時半ごろ家に帰ると、祖父が呆然と炉端に座っていました。
「日本は負けたとせ。さっき天皇陛下がラジオに出られて――」
信じられないことを祖父はいいました。
日本は滅亡するのだとわたしは思いました。
こんな具合に、わたしは水泳について一種のためらいがありました。呑気に泳いでいると大変なことが起こりそうな気がするのです。潮の香や、水がひやりと全身にしみてくる感覚がわすれられないのに、泳ぎにゆくのはなんだかゲンが悪いような気がします。
だが、そんなためらいを、古橋広之進はふっ飛ばしくれました。戦後の混乱期に突然登場した古橋に日本国民はどれだけ元気づけられたか、わたしと同世代の人々はよくご存知です。
戦後3年目の1948年、ロンドンオリンピックが開催されました。敗戦国の日本とドイツは参加できませんでした。
オリンピックの競泳決勝当日と同じ日に日本では全日本選手権が行われました。その大会で古橋は400米自由形と1500米自由形で世界記録を出したのです。その記録はロンドンオリンピックの金メダリストの記録を上回っていました。
その秋の学生選手権で古橋は400米自由型、800米自由型でそれぞれ世界記録を更新しました。
ニュース映画でわたしは古橋の泳ぎを見ました。肘をあげて水を掻き、ついで腕をまっすぐ伸ばす現在のクロールと違って、古橋の泳法は子供の喧嘩のように両腕をくるくる振り回して、水車を連想させながら驀進するのでした。圧倒的に強かった。貧困と食料難のなかの世界記録。敗戦で自信喪失した日本人の背中を古橋はドンと叩いて、
「しっかりせい。さあ復興だ」
と気合をいれてくれたのです。
「ほんまに古橋は世界記録をだしたのか。インチキと違うか」
アメリカは疑っていたようです。現在の中国のように日本を信用ならぬ国と思っていたのです。
1949年、アメリカは古橋、橋爪四郎ら6名の選手を全米選手権に招待しました。古橋らの実力が本物がどうか確認したかったのです。
このレースで古橋は400米、800米、1500米にそれぞれ世界記録を樹立しました。向こうは仰天して「フジヤマの飛び魚」と名付けて古橋を賞賛しました。日本人はわがことのように歓喜し、鼻を高くしました。町の映画館はニュース映画を見たい人で一杯になり、本編が始まると多くの人が席を立って帰途についたほどだったのです。わたしもそれ以来、泳ぐことにためらいがなくなりました。
1952年、ヘルシンキオリンピックに日本とドイツは参加を認められました。だが、ここでは橋爪が銀メダルをとったものの、古橋はすでに全盛期をすぎていました。決勝には進出しましたが、コースナンバーも着順もともに8。いちばん隅で回っていた水車のような腕の振りが、なんともわびしくて正視に耐えない思いでした。
わたしは後年古橋と雑誌で対談したことがあります。子供のころ浜名湖で数々の新記録を出して新聞に「豆魚雷」と命名されたこと、日大水泳部のプールはろくに水を入れ替えないので水草が浮いており、掻き分けて泳いだこと、宝塚で行われた国民体育大会に出場したいが、汽車賃がないので無賃乗車をやったことなどを話してくれました。対談する前に会う機会があったら小説に書きたかったと思ったものです。
これまでの北島康介は全盛期の古橋広之進に近づいていました。だが、今回のオリンピックにおける北島の姿にわたしはヘルシンキの古橋をかさね合わせて粛然となるのです。イチローといい松井秀喜といい、すべてのスポーツ選手に引退は不可避でしょうが、北島には3連覇をなしとげて古橋の再来になってほしかったのです。それが可能だとわたしは思っていました。ある意味では戦後よりもいまの日本は荒廃しています。第二の古橋をみんな待望していたのです。でも、そんな期待の大きさが調整ミスを招いたのかもしれません。
敗れて帰国するさい古橋は自殺まで考えたそうです。北島はまさかそんなことはないだろうけど、気落ちしてはいるでしょう。日本の金メダルの値打ちは他国にくらべて安すぎるようです。北島には充分に報いてやりたいものです。
いや、これを書いている時点では、まだ200米が残っています。北島は奇跡の復活をとげるかもしれません。歳をとってわたしは泳ぐことにまたためらいを感じるようになりました。脚が吊ったり心臓が引きつったりするような気がするのです。
第二の古橋、北島に不安を払拭してもらいたい。飛び魚の再来をわたしは祈ってやみません。もっとも北島は平泳ぎだから、フジヤマのカレイというべきでしょうか。