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2011年4月8日 2:02 PM

立候補者

前回につづき、日本人と政治家について語ります。
かつて日本は経済一流、政治三流といわれました。いまは政経ともに三流といってよいかとお もわえます。経は国際事情に影響されるところが大ですが、政のほうは大部分日本だけの事情でずっと三流でありつづけているとわたしは思います。三流の政治 家は三流の国民が産むといいますが、そういってしまえば身も蓋もない。歴史が大きくかかわりあっているのです。
わたしは敗戦の翌年、昭和21年 に小学校を卒業し、秋田県立大館中学に入学しました。当時はまだ旧制で、入試をパスして進学したのです。すぐに学制改革がきまり、わたしたちより一級下の 世代は入試無しで全員が新制中学にはいることになりました。翌年から中学の入試は廃止され、大館中は生徒を募集しなくなりました。さらに翌23年には新制 高校が発足、大館中学は秋田県立大館鵬鳴高校となりました。わたしたちの一、二級上の生徒はそれぞれ大館鵬鳴高の一、二年生ということになったのです。、
わたしたちはまだ高校生ではない。かといって新制中学生でもない。大館鵬鳴高併設中学の三年生という不安定な身分になりました。わたしたちだけでなく日本全国どこでも昭和8年4月から昭和9ねん3月までに生まれた世代はこの一年きりの併設中学で学んだわけです。
マッカーサー司令部の方針で当時の中学、高校では柔、剣道は禁止。野球のみが大繁盛しました。
わたしたち併設中学生は高校の野球部へ入ると球ひろいしかさせてもらえないので、もっぱら小学校の校庭や寺社の境内で軟式野球を楽しみました。六三制野球 ばかりがうまくなり、という川柳が当時の事情をよくあらわしています。わたしたち併設中学生は試験をうけて中学へ入ったぶん、多少の優越感をもって新制中 学生をみていました。かれらが似たような白線帽をかぶっているので、わたしたちは白線帽をかぶらないようにしたものです。だが、数ヶ月たつうちに新制中に は併設中にない文化風俗が定着しつつあるのに気づかされました。
一つはなんといっても男女共学です。旧制の最後である併設中学は男子校で、女学生ははるかに遠い存在でした。顔見知りの女学生と町で出会ってもおたがい目をあわせず、知らん顔ですれちがったものです。女学校の近くを通るだけでなにやらあやしい気分になりました。
ところが新制中の生徒たちは女学生と同じ校舎で学んでいます。放課後も一緒に部活動をやっています。陸上競技、バレボール、バスケットボール、テニス、水 泳など同じグラウンドでやるのだから、さぞ張り合いがありそうです。コーラスや絵画、習字などは男女合同で稽古できるのです。男と女が一緒に下校する姿も めずらしくない。わたしたちは女学生が遠い存在であるだけ、共学がいいものかどうか見当もつかなかったのですが、なんだか悔しかったのは確かでした。
そのうち新制中学では生徒会の委員長の選挙が立候補制で行われるとの話が伝わってきました。
「立候補。そんなことをする奴がいるのか」
「あつかましいなあ。恥ずかしくねえのか」
「おらに投票してけれ、なんてよくいえるな。どういう奴なんだ、それ」
わたしたちはおどろき呆れて、顔をしかめました。旧制中学にも生徒会の委員長や級長の選挙はあったが、候補者にしゃしゃり出る者などいなかった。なんとな く「あいつがよかろう」というムードで投票が行われ、当選がきまった。選挙というものはその集団の成員がそれぞれ適当と思う者に票をいれ、集計して当選者 がきまるのがつねでした。何人かの候補が名乗りをあげ、「オレに投票してくれェ」とさけぶようなハシタナイものではなかった。役員は推されてなるもので、 自分で売り込んでなるものではなかったのです。
新制中学ではそうでないらしい。厚顔な奴が何人がしゃしゃり出て恥ずかしげもなく自薦の演説をやるそうです。明らかに旧制とちがう文化、風俗が醸成されつつあるようだ。いま思えばあれがマッカーサー司令部の民主化教育、アメリカ化教育だったのでしょう。
新制中の生徒会長選挙は数人の候補者の争いとなり、女子生徒が当選したということだった。鼻の穴を広げてキンキン声で演説する女の子をわたしは想像し、子供心にイヤハヤと思いました。時代の激変をここでも実感したのです。
出しゃばりを嫌い、自己宣伝をあさましく思うのは日本人の感性でした。謙譲の美徳、恥を知る文化のDNAをわたしたちは保持していた。異質なものが突然マッカーサー司令部によってもちこまれたのわけです。以来、日本人は自己宣伝を浅ましいと感じなくなった。
だが、長い歴史でつちかわれたDNAがたかだか百年以内に滅びてなくなるわけもない。日本人は選挙に名乗りをあげ、臆面もなく自分を褒め称える政治家とい う人種を心の底で軽蔑しているのです。真にすぐれた人材は選挙になど出ない、権力など欲しがらないと思っているのではないでしょうか。
むろん志 と理想を抱き、純粋な使命感にかられて出馬する人材もいるのだしょう。だが、大多数は権利と地位、名声がほしいだけの自己宣伝屋に過ぎないのではないか。 こんどの都知事選の候補者の顔ぶれを見てもその感をふかくします。少数の人をのぞいて、われわれの心の底の軽蔑の念、不信感を裏づける顔が並んでいる。国 民から真に求められるような人材は、国民のそんなやりきれない心理を忖度して、ますます選挙に出たくなくなるのではないだろうか。
日本の政治が 三流といわれるのには旧制高校の廃止による政治家たちの一般教養の不足とか、イギリス流のノーブレス、オブリージの欠如とか世襲制の弊害とかいろいろ要素 はあるでしょう。わたしには過度のアメリカ化の結果、日本人の品格にそぐわぬ人材が平気で政治に進出するようになったのが最大の問題だと思うのです。