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2013年2月12日 4:29 AM

納豆で善戦か、楠木正成

鎌倉時代を調べていたら、当時の武将が好んで納豆を食べていたのを知りました。大忠臣楠木正成も愛好したはずです。
いま書いている「新太平記」においてさっそく正成に毎朝納豆を食べされることにしました。史実になくともこの程度のフィクションはゆるされるでしょう。
正成は豪胆無比の戦略家として著名です。わたしたち高齢の徒は、正成といえば皇居前の銅像、―甲冑をつけて馬に乗った颯爽たる姿を思いうかべます。納豆とはなかなか結びつきません。糸を引く納豆と飯を一緒にして頬張る正成なんて人間味あふれてオモロイではありませんか。
もっとも糸を引く納豆が普及したのは室町時代以後だったようです。それ以前の納豆は煮た大豆に麹をいれて発酵させ、乾燥、熟成させたものでした。味は大差ないが糸は引きません。しかも公家文化の普及した近畿では、あんな臭いものは敬遠したにきまっています。正成が率先して食べたとすれば、彼の先進性の一つの証拠になるのではなかろうか。

納豆といえば思い出があります。京都北白川国民学校の4年か5年のころ、学校で納豆の配給がありました。食糧事情がひっ迫して給食用の米やパンがなくなり、仕方なく有り合わせの納豆でしのぐことにしたのでしょう。

土曜日で半日の授業でした。みんな藁つと入りの納豆を1つずつもって帰宅しました。すぐにわたしは昼食のおかずにして食べました。父母ともに秋田の出身なので、それまでわが家ではたびたび納豆を食べていました。違和感はなかったのです。

月曜日、学校へゆくと、みんなが納豆の話をしていました。

「なんやあれは。臭うて食えへんかったぞ。あんなもん、だれが食うのやろ」

「うちの親は怒っとったぞ。豆の腐ったもんを子供に食わせて、腹痛起こしたらどうするんやいうて」

納豆の評判は最悪でした。

なるほど地方によって食物の好みも変わるんか。わたしは1つ勉強をしました。とくに納豆が好きだったわけではないが、「豆の腐ったもん」という言い方にはシラけた思いをしたものです。

つぎの土曜日また納豆が配給になりました。みんな顔をしかめて受けとりました。

「要らんのやったら、おれにくれよ」

声をかけると、級友たちはつぎつきにわたしの机に納豆の入った藁つとをおいてくれました。10個以上あったと思います。わたしは鞄にそれらを詰めて意気揚々と帰宅しました。

翌日の朝食に納豆が出ました。母が入手のいきさつを話し、父が、

「おまえ、初めて親孝行したな」

と笑いました。わたしはなんだか鼻が高い気分でした。

現在わたしは3日にあげず納豆を食べています。ナットウキナーゼが動脈硬化や便秘に効くというので愛用しているのです。わたしは50代のころから糖尿病で、薬と炭水化物制限療法でやっと血糖値をおさえています。つまり週に2~3度しか米のご飯を食べないのです。

米の飯なしで納豆を食べるのはけっこう難しい。飯あってこその納豆と実感せざるえを得ないわけです。仕方ないから徹夜仕事を終えたのち、寝酒のつまみ代わりに食べるのですが、もう一つ美味くありません。焼き納豆とか天ぷら納豆なら良いのですが、まだ暗いうちから妻に料理を頼むわけにもいかないのです。

最近、納豆に含まれるビタミンKが血液凝固剤だときいて愕然としました。脳梗塞や心筋梗塞の危険があると思ったのです。だが、納豆には血栓を溶かす酵素も入っている、凝固と血栓はまったく別物と知って安心したところです。

中学のころわたしは大館市の親戚に下宿していました。当時はまだ納豆売りがいました。満州からの引き揚げ者だという人品卑しからぬオジサンが、ナット、ナットーの呼び声の合間に、

「朝マの納豆はいかがですか」

と各家庭をまわっていました。朝マは朝食のことです。秋田弁の発音ではなくきれいな標準語なので

妙に違和感がありました。敗戦までは一流の地位にいただろうこのオジサンに、わたしは大いに想像力をかき立てられました。話をきいてみたかったです。

こうして納豆談義をする間に楠木正成についてのアイデアが1つ浮かびました。彼が500人の軍勢とともに千早城にこもり、20万人の幕府軍の攻撃に耐え抜いたのは、保存食の納豆があって兵糧攻めに屈せずに済んだからではないでしょうか。

納豆はもともと寺院の納所(ナッショ、倉庫)でつくられたから納豆というのだそうです。千早城の納所ではせっせと納豆が製造されていた―わたしの珍説ですが、案外的中しているかもしれませんぞ。

ご飯なしで納豆を食べるのは案外