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2013年6月18日 3:24 AM

統一球、ああなつかしのラビットボール

プロ野球の統一球がもっと飛ぶようにひそかに改造されていました。NPB(日本プロ野球連盟)が突然発表したので、ご存知のように世の中ちょっとした騒ぎになりました。
、統一球は一昨年加藤良三コミッショナーの旗振りで導入されたのです。大リーグの使用球よりも飛ぶ球をいつまでも使っていては、日本の野球の信用にかかわる。国際試合でも不利になるという主旨で採用されたはずです。
ところが2年間使ってみたところ、各チームとも本塁打が激減しました。1~0とか2~1とかのロースコアの試合が増えて、
「やっぱり野球の華はホームランだなあ」
「統一球は面白くないよ。以前の飛ぶ球を復活させろ」
との声がかしましくなっていました。
わたしは飛ぶ球の復活には反対でした。大リーグと違う球を使っていては日本の野球はいつまでたってもミニチュア扱いだし、日本にも西武の中村剛也のように統一球でホームランを量産できる選手がいるのだから、なんとか工夫して大リーグと対等に試合できるよう選手やコーチの努力を願いたいと思っていました。飛ぶ球に戻してホームランが増え試合が面白くなったとしても、
「あれは日本独自の球を使っているせいだ。まあインチキなのだな」」
とわたしはシラけるばかりだったでしょう。
むかしヤクルトにいたホーナーという大リーガーが契約途中でアメリカへ帰り、
「地球の裏側では野球のようなことをやってるぜ」
とバカにする発言をしました。観客にすぎないわたしまで悔しい思いをしたのです。
飛ぶ球に改造したことをNPBの事務局がかくしていたのは、わたしと同じ思いのファンのことを考えたのでしょう。もっとも読売のナベツネさんが、
「最近の試合はおもしろくないな。以前の球に戻したらどうだ」
と関係者にいったという説もあります。そのあたりが真相かもしれません。
昭和24年と25年にラビットボールという{飛ぶ球」が採用されたことがありました。結果ホームランはほぼ倍増し、なかでも2リーグ分裂の昭和25年には松竹ロビンスの小鶴誠外野手が51本というシーズン記録を樹立しました。(24年は阪神の藤村冨美男の46本)
小鶴誠は昭和17年に名古屋入団。当時は飯塚誠という名でした。婿入りしたのだろうと今日までわたしは思っていたのですが、当時は戦争の真っ最中。プロ野球へ入るなんでゆるされなかったので、偽名で登録して入団したのだそうです。
戦後、中部日本へ復帰、急映、大映と移って松竹ロビンスへ入りました。松竹監督の新田恭一の指導でゴルフスイングを身につけ、ラビットボールのおかげもあって新記録を達成したのです。ラビットボールの導入前は青田昇、川上哲冶の25本が日本記録だったから、藤村、小鶴の記録がいかに驚天動地だったかわかるというものです。
小鶴が51本を打った年わたしは高校2年生でした。小鶴というのはどんな選手か。大学へ入ってから後楽園へ見にゆきました。筋骨隆々の選手を想像していたのに、意外に小柄な優男なのでびっくりしました。愛称は「マコちゃん」。なんだか照れたような表情が印象に残っています。
でも打撃練習のフォームの力強さ、美しさには惚れ惚れしました。打球の飛距離も群をぬいていました。
師匠の新田恭一が元ゴルファーだったこともあって「ゴルフスイングの小鶴」といわれましたが、実際はダウンスインだったのです。すでにラビットボールは廃止されていて、わたしの見た試合ではホームランは出ませんでした。でも、あこがれの小鶴を見て、満足して帰途についたのをおぼえています。
ラビットボールが2年で廃止されたのは、あまりにたやすくホームランが出るということにあったようです。その後王貞治が昭和39年に40号(翌年55号)を打つまで14年間40本打った選手がいなかったのだから、小鶴の人気は大変なものでした。
今回の統一球改造事件とラビットボール採用とはまったく次元の違う話です。どちらもホームランの量産が目的の措置だったのですが、ラビットボールは公然と採用されたのに
統一球の改造は秘密裡に実行されました。選手会の詰問にNPB事務局が答えられず、やむを得ず発表したのですが、コミッショナーも事務局長も対応が見苦しいかぎりでした。
小鶴誠の時代よりも人間の質が落ちているのではないか。選手の技術はすばらしく向上しているのに、組織側、経営側の人間の質はむしろ低下しているのではないか。ファンもあの当時はもっと大事にされたのではないか。こんかことがあるようでは、そうでなくとも落ち気味の野球人気がますます低下するのではないか。
そんな疑念を抱かせる騒動でした。わたしのような老骨にラビットボールや小鶴誠の記憶をよみがえらせてくれたことが、せめてもの慰めなのでしょうか。