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2012年9月20日

至福のとき(3)

大二郎はつぎに当主の京屋幸兵衛を呼んで話をききました。

幸兵衛はみつのすぐ下の弟で、二つ年下の二十七歳になります。二年まえに家督を継ぎました。

「隠居所にはいつも大金をおいていたのか。たまたまなのか」

まっさきに大二郎は訊きました。

「たまたまでございます。あの金はおみつ姉さん夫婦に料理茶屋を出させるため、きのう用意いたしました。義理の兄の理助が今朝迎えにきて、金をもって一緒に帰るはずだったのでございます」

三日前にみつは理助をつれて借金の掛け合いにやってきました。幸兵衛も隠居も良い返事をしなかったので、みつはそのまま実家に居残って掛け合いをつづけたのです。

理助は明日の勤めがあるので、一人で坂本町の自宅へ帰りました。池之端の料理宿へ通って彼は板前修業しているのです。

「もう二度とご迷惑はかけません。これが最後のおねがいです。どうか私に人並みな夫婦の暮らしをさせてくださいな」

懸命にみつは頼みこんだということです。

理助に惚れきっています。二度も離縁を経験し、三十歳近くなってから若くて二枚目の亭主にめぐりあいました。この幸運をなんとか逃すまいとして必死なのです。

幸兵衛や隠居は、疑いの目で理助を見ていました。理助ほどの美男ならどんな美女も思いのままのはずです。みつは器量もナミだし、理助より五つも年上なのです。金目当てに娶(めと)ったとしか考えられません。

だが、みつは理助を信じきっていました。

「理助さんは、女は顔よりも気立てと才覚だというのよ。料理茶屋をやっていくのに役に立つ女房がほしいんだって。それなら私、自信がある。しっかりした、いい女房になってみせるから」

お願い。七百両貸してください。店開きさえすれば二、三年できっとお返ししますので。

話がつくまでは、みつは居すわる風情でした。

「仕方ない。おみつ姉さんがあそこまでいうんだから貸してやろうよ。理助さんの料理の腕もまあまあのようだし」

最初に折れたのは幸兵衛でした。

これまで何度か理助のつくった料理を食べてみたことがあります。絶品とはいえませんが、なんとか商売ができそうな腕前だとは思っていました。

「理助ほどのいい男がみつを娶ったのは金目当てだと思ったが、美男は並の男ほど女の顔立ちにこだわらないというからな。みつがいうのは案外本当かもしれない」

最後には隠居もそういいだしました。

話しあったすえ、期限は五年、無利息無担保で七百両貸し出すことになりました。手堅い商人としては大甘な約定ですが、そこは実の姉であり、いっぽうで厄介払いの意味もあったのです。

金は昨日の夕刻、同じ尾張町の両替商近江屋から引き出して隠居所へおさめました。運び役は京屋の手代二人と近江屋の手代一人でした。近江屋から京屋まではほんの三丁ほどです。

「隠居所に大金のあるのを知っているのは、幸兵衛どのとご隠居夫婦、それに運び役の三人だな。ほかにだれかいるか」、

大事なことを大二郎は訊きました。

「はい。ほかにはみつ姉さんと理助さんだけと思います。二百両の運び役のだれかが他人にもらしたのかもしれませんが」

すぐに聞き取りをしてこい。大二郎に目でうながされて喜平次が隠居所を出てゆきました。

「さとの話では、賊は片目で、腕に入れ墨刑の痕跡があったたらしい。何者か心当たりはないか」

大二郎が訊かれて、幸兵衛はかぶりをふります。

「いいえまったく。賊は牢に入ったことのある男だったのでございますか」

「そうらしい。覆面は顔の斬り傷をかくすためかもしれぬ。だとすると、かなり粗暴な男だな」

「恐ろしい。そんな男がなぜ金が隠居所にあることを知ったんでしょう」

「まだわからぬ。案外奉公人のなかに賊と通じた者がいるのかもしれぬぞ」

「ま、まさかそんな――。万一そんな奉公人がいたら、京屋は破滅でございます」

幸兵衛が身をふるわせたとき、母屋から一人の女中がきて伺いを立てました。

「母屋に理助さんがきておられます。お通ししてもよろしいでしょうか」

急をきいて坂本町の自宅から駆けつけたのです。大二郎がうなずくと、やがて理助が隠居所の玄関にあらわれました。

「お役目ご苦労さまでございます。ワ、私がみつの亭主の理助でございます」

挨拶するのを大二郎はさえぎって

「はやく仏に顔を見せてやれ。だれよりもおまえに会いたかったはずだ」

と奥の六畳間を指しました。

理助は玄関へあがり、ふすまをあけて奥の間に入ります。すぐに慟哭の声がきこえました。

「おみつ。おみつ。ああなんてことだ。だれがこんな酷いことを――」

おみつよう。おみつ。理助は何度も呼びかけてすすり泣きました。

無理もありません。娶ったばかりの妻を殺され、

料理茶屋を開業する夢も消えたのです。

「可哀相に。こんなことなら二つ返事で元手(もとで)を融通してやればよかった」

幸兵衛がもらい泣きしました。