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2012年9月29日

至福のとき(7)

神田多町にも芸者あがりのまつという三味線の師匠がいます。弟子の数はやはり三十人ばかり。ひょっとして卓治を知っているかもしれません。そんなカンが働いて喜平次はまつを訪ねたのです。

おどろいたことにまつの門下にも片目の男がいました。名は治兵衛。三十歳前後で中肉中背。卓治と同様右の目に黒い眼帯をあて、達者に三味線を弾いたそうです。

稼業は卓治同様に料理人で、浅草あたりの宿屋で板前をしているということです。

「そ、その治兵衛という男、左の腕に入れ墨はなかったか」

期待に息をはずませて喜平次は訊きました。

さあ、どうでしょう。袖をまくりあげたのを見たことがないので」

まつの答もしげと同じでした。

治兵衛もほんの三ヶ月はかり弟子入りしただけで身を引いたそうです。卓治がしげの塾をやめたのと同じころ、治兵衛もまつのもとを去ったわけです。

卓治と治兵衛。ともに片目の男がほぼ同じ時期に二つの三味線塾で習っていたことになります。

妙な話です。さらによく訊いてみると、卓治は一のつく日――一日、十一日、二十一日に稽古をし、治兵衛は三のつく日――三日、十三日、二十三日に稽古をしたとわかりました。

「卓治と治兵衛は同じ男じゃないでしょうか。どちらも片目で三味線が上手で三十前後の中肉中背。しかも料理人です。いっぽうは芝、いっぽうは浅草の宿屋の板前らしいですが」

喜平次は興奮して大二郎のもとへいきさつを告げにやってきました。

「そうだな。二人を追ってみる価値はありそうだ。しかし同一人だとすると、なんのためにそんな真似をしたのかね。二人の師匠から習うなんてやつはめったにいないはずだぞ」

大二郎と喜平次はともに首をひねった。

ともかく卓治と治兵衛の身元を調べようということになりました。

亀蔵、喜平次は下っ引を動かして芝、浅草方面の宿屋や料理茶屋に一軒ずつあたってみました。だが、片目の板前はどこにもいません。卓治、治兵衛という職人はそれぞれ数人いたが、いずれも三味線には縁がない男でした。

「わからない。こんどばかりは賊の影さえ浮かんでかんでこない」

大二郎は考え込んだすえ、賊がみつを殺した情景を再現してみようと思い立ちました。なにか見落としている点があるかもしれないのです。

二人の目明し、中間(ちゅうげん)の新助、下っ引数名、京屋の女中、下女ら関わりのある男女を大二郎は隠居所に呼びあつめました。それぞれの役柄をきめ、段取りを打ち合わせます。

夜、支度がととのいました。玄関の次の間に床をとって女中のさとを寝かせ、奥の間にはみつの役をする下女を寝かせました。

となりの仏間の仏壇の前に経机を据え、横に手文庫をおきます。仏間の終夜行灯に火をともすと、橙色のあかりで仏壇とそのまわりがぼんやりかびあがりました。大二郎、亀蔵、喜平次その他数人の下っ引が玄関や台所にわかれて待機します。

「さあ、はじめるぞ。新助、入ってこい」

大二郎が号令し、賊の役を演じる新助が厠の障子窓をそっとはずして侵入しました。

新助は賊と同様大小を差し、覆面をして右目に黒い眼帯をしています。襷(たすき)がけで着物の袖を二の腕までまくりあげていました。

「まず玄関の次の間だ」

大二郎の声で新助は次の間へ入りました。

寝ているさとを揺り起こして脇差を抜き、刀身を頬に押しつけます。ついでさとを手拭いでかるく縛りあげました。

「次は奥の間。みつから金のおいてある場所を訊ききだす」

大二郎の指示で新助は奥の間へ入り、みつ役の下女を揺り起こして脇差の抜き身を突きつけます。ついでさと同様に縛っておいて

「金はどこだ」

とドスのきいた声でたずねました。

「と、となり。仏壇の前」

震え声でみつ役の下女は答えます。新助ともどもなかなかの熱演です。

新助は仏間に入りました。仏壇の前にすすみ、経机の右にある手文庫をかかえあげます。持参の布袋に手文庫をいれてかつぐと、みつの部屋へ引き返して手文庫をおき、脇差をぬきました。

「ようし。そこで一休みだ」

大二郎の声でみんなわれに返りました。

さとのそばに大二郎は歩み寄り、新助を仏壇のそばに立たせます。

「新助、もう一度手文庫をもって、布袋にいれてかついでみろ」

いわれたとおりに新助は動きます。

手文庫は仏壇の前の経机の右にあります。仏壇のやや手前、左寄りにある終夜行灯の橙(だいだい)色のあかりが、まわりをぼんやりとうかびあがらせました。

新助が黒の眼帯で右目を覆っているのが、さとの部屋からはっきり見えます。

さらに新助は着物の袖をまくりあげて左肘下の二本の入れ墨をむき出しにしていました。だが、手文庫を持参の布袋にいれるあいだ、さとの部屋からは入れ墨は影に溶けて見えなくなります。

終夜行灯に背を向けて文庫へ手をのばすと、左肘にあかりがとどかなくなり、肘から下は影になってしまうのです。

「さと。おまえ入れ墨が見えたといったが、これじゃ暗くて見えんではないか。嘘をいったのか」

「ち、ちがいます。たしかに見えました。賊は背中をまっすぐこちらに向けていました」

おろおろして、さとは説明しました。

「新助。もっと正面を向いて手文庫を袋に入れてみろ。そうそう、そんな具合だ」

新助は正面を向いたまま、窮屈そうにいわれるままの動作をしました。

行灯のあかりが左腕にとどきました。肘下の二本の入れ墨がはっきりと見えます。

「ようしわかった。さとのいうとおりだ。賊は左腕に入れ墨をしていた」

一同はそれぞれの役柄に復帰しました。

新助はみつの部屋へもどり、手文庫入りの袋を肩からおろしました。ついでみつの襟首をつかんで引き倒し、脇差しで胸を一突きします。声もなく悶絶したみつののどを掻き切って止めをさしました。

あとは手文庫の袋を担いで退散します。恐怖で凍りついたまま、さとは見送っていました。

「ようし、みんなよくやってくれた」

大二郎の声で一同はそれぞれの役から、本人に立ち返りました。