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2012年9月30日

至福のとき(8)

目明し二人を残して、大二郎は一同を隠居所から退去させました。

「わかったことが二つある。一つは賊が入れ墨をさとに見せつけたことだ。わざわざ左腕を行灯に向けて見えやすいようにした」

ふつうなら目印に目なる入れ墨を隠すはずです。

それを賊は見せびらかしました。つまりありもしない目印によって、入れ墨刑の前歴のある男を装ったのです。

「なるほど。すると腕の入れ墨は自分で描いた線なのですかい」

「黒い線を二本書きいれるだけだから、造作もねえですよ。そうか、あれは偽の入れ墨だったのか」

亀蔵と喜平次は悔しそうに顔をしかめました。

いまのいままで賊は左腕に入れ墨のある男と信じきっていたのです。

「もう一つは以前から気になっていたんだ。賊は金を奪ったんだから、そのまま退散すればいいのに、みつを殺した。金の在り場所を訊き出してすぐ殺したのだろうと思ったが、金を手にしてから殺したのだ。ふつうなら殺さずにすませたところだ。つまり賊にはみつを殺さねばならぬわけがあった」

大二郎がいうと喜平次がひざを叩きました。

「恨みがあったんですね。となるとやはり正七の仕業でしょう。あいつはおみつさんにコキ使われて恨んでいた。楓屋に使いに出されたのを幸い、賊を装って押し入った。片目のふりをして、左腕に墨で線をいれて」

「恨みと欲の二人づれだったんだな。翌日にはおみつは坂本町に帰ってしまう。あの晩しか押し入るときはなかったんだ。正七の奴、気のきかねえ正直者と思わせてじつはかなりのワルだったんだ」

喜平次の意見に亀蔵も賛同しました。

大二郎はまだ納得できません。

正七はみつの殺された晩たしかに両国の楓屋へ使いにいっています。白(しろ)牛酪(ぎゅうらく)を一両ぶん購入して帰途につきました。それきり行方が知れないのです。

深夜、賊を装って主家の隠居所へ押し入ろうとする者が、命じられた買い物をきちんとする気になるでしょうか。一両を猫ババするのが人情でしょう。

正七は十五で京屋の小僧になり、二十歳の今年手代に取り立てられました。気がきかないのに出世したのはみつが当主に口添えしたおかげです。理助との逢瀬のあいだ待合茶屋の外で待たされたといっても、そんなに恨んでいたとは思えません。行方をくらましたのはなにか止むを得ない事情があったからではないでしょうか。

「もう一度正七の足取りをたどってみよう。おれにはどうしても正七がそんな悪党とは思えぬのだ。猫をかぶっていたにしても、七年もかぶり通せるわけはあるまい」

二人の目明しに大二郎は命じました。

亀蔵らはすぐに両国の楓屋をたずねて、あらためて聞き取りをおこないました。

たしかに正七はみつの殺された夜、白牛酪を一両だけ買いもとめています。持参の木の弁当箱に白牛酪を詰めてもらい、風呂敷に包んで持ち帰りました。なにしろ貴重な強壮剤です。宝物のように正七は大事にしていました。

正七はみつが理助と知りあったころから月に一度白牛酪を買いにきていたようです。若い理助が白牛酪で精をつけねばならないほど、みつは欲求がさかんだったのでしょう。

正七に帰り道なにが起こったか、亀蔵らに教わるまで楓屋は知りませんでした。亀蔵らは付近の家々を聞き込みにまわりました。

両国橋西の南詰め、薬研掘には医者や薬種屋が軒をつらねています。富裕な家々の裏の一角に数棟の裏長屋がならんでいました。その一軒で正七の噂が亀蔵の耳に入ったのです。

裏長屋の奥にシカという老婆が息子とともに暮らしています。シカ婆さんはむかし十軒店の京屋に奉公していたのですが、老いてひまを出され、馬方をしている倅と暮すようになりました。いまは中気を病んで寝たきりです。

楓屋の帰り正七はそこへ立ち寄りました。むかし京屋へ小僧として入ったとき、たいそう世話になった縁だといいます。病身のシカ婆さんに正七はいつも白牛酪を削って食べさせていました。みつにバレないようにほんの一かけらですが、婆さんは食べるといつも元気になったようです。

「見つかったら大変だよ。もうおよしよ」

婆さんは気遣うのですが、白牛酪の美味さには勝てません。

「大丈夫だよ。ほんのわずかなんだから」

正七にいわれるままご馳走になっていました。

みつの殺された夜もそうでした。婆さんも息子もかくさずに打ち明けたのです。だが、正七が退去したのちのことは二人とも知らないようです。