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2012年10月1日

至福のとき(9)

亀蔵は目を丸くして、聞き込んだいきさつを大二郎に告げました。

「正七は案外殊勝な若い衆ですな。白牛酪を削ったのは良くねえが、寝たきりの婆さんに恩返ししたんですから」

「なるほど。人というのはなんとも厄介な生き物だな。まったくの善人も少ないが、まったくの悪人にもめったに会えない。ほとんどの者が善悪いりまじっている」

大二郎は苦笑いしてつぶやきました。

シカ婆さんをたずねたあと正七がなにをしたかは、まもなくわかりました。

近くに住む医者宮村順庵の家の横を通ったとき、順庵の十六になる娘が風呂に入っていました。正七には入浴中の女の肌のぬくもりや湯をかぶる音、湯気の気配などを知る独特の嗅覚があるようです。

裏口の屋根を越えて庭に入り、浴室のそばに近づきました。風呂の焚口の前にしゃがんで物音にきき耳を立てたのです。

そこへ一匹の犬が近づいて、正七が横においた白牛酪の包みをくわえて逃げ出しました。

「あ、こら。待て、この犬」

大あわてで正七は追ったのですが、犬はおもてへ逃げ去り、入浴中の娘の悲鳴をきいて家の下男が飛び出してきました。

この野郎、なにをしてやがるんだ。下男は正七をねじ伏せ、縛りあげました。用心棒をかねた屈強の男だったのです。

「白牛酪が。白牛酪が」

正七は必死で足掻いたのですが、容赦されるわけもありません。主人の順庵の前に引き立てられ、なんのために侵入したかを問い詰められたのです。

「白牛酪。そうか一両もしたか」

幸い順庵はシカ婆さんの知合いでした。

事情をきき、正七が哀れになったようです。

「本来なら自身番へ突き出すところだが、婆さんを見舞ったのに免じて赦してやる。二度と覗きなんかやるんじゃないぞ」

そういって縄を解かせたのです。

なんとか正七は放免されました。だが、その後のことは依然としてわからないのです。

「白牛酪を犬に奪われたので正七は京屋へ帰れなくなったんだ。気の小さな男だよ。とてもみつを殺したりはできまい」

事情をきいて大二郎は断言しました。

「そうですな。正七はシロだ」

と亀蔵と喜平次はうなずきあいます。

「しかし、覗きの病いというのは治らんものですなあ。泥棒まがいのことをしてまでも、女の裸が拝みたいんだから」

「湯屋へいけばいくらでも見られるのに、こっそり盗み見るのが醍醐味なのだろうな。人にはそれぞれ趣味嗜好がある。うっかり他人を笑えないよ」

大二郎はいって、苦笑しました。

「ということは、旦那にもなにか他人にいえねえ病いがあるんですかい」

「いや、おれはもっと物騒だぞ。柔術で人をぶん投げたり、剣術で面を一本とったりすると心地よさで震える。至福のときだな」

「そうか。たしかに物騒ですな。あんまりそばに寄らないようにしよう」

亀蔵はおおげさに両手をふってあとじさります。

これで下手人探しは振り出しにもどりました。

三味線の達者な料理人の卓治と治兵衛。二人の素性を目明したちはあらためて探りにかかりました。

が、そのときになって正七の居場所が明らかになりました。薬種商「楓屋」の主人が正七を見かけたと自身番に届け出たのです。

「楓屋」の主人は八月二十四日、本所の回向院へお参りしました。千体地蔵尊の供養会(くようえ)の日だったのです。境内は大勢の参詣人でにぎわっていました。「楓屋」はふっと、人ごみをよそに境内のすみで落ち葉掃きをしている若い僧を目にとめ、おどろいて立ちすくみました。坊主頭になっていますが、まちがいなく正七だったのです。

「お前、京屋にいた正七じゃないか」

近づいて声をかけると、正七は怯えた顔になり、

「ち、ちがいます。あたしはここの者で」

箒を手にあたふたと立ち去りました。

大二郎は喜平次と新助をつれて本所町廻りの途中、元町の自身番でこのことを耳に入れまし