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2012年8月15日

花かんざし(6)

その日の夕刻、大二郎は両国橋の東の舟宿「佐野屋」をおとずれました。ひさに会うためです。

「調べにきたわけではない。ふつうの客として涼みがてら一杯やりにきたのだ。ただし、酌はひさにさせてくれ」

玄関へ出た女将に大二郎は申しいれました。

看板娘のひさを一人占めされては困るはずだが、そこは奉行所の威光で愛想よく女将は受けいれました。二階の六畳間へ案内して、ひさに酒肴をとどけさせます。

「らくにしてくれ。今夜は聞き取りではなく、おまえの酌で飲みにきたんだ」

夕闇が濃くなり、窓から流れ込む川風がとても良い心地です。やがて花火がはじまるでしょう。

舟宿にいるときのひさは、先日会ったときよりもさらにかがやいています。涼やかな目。端正な鼻すじ。柔らかそうなくちびる。すべてが品よくととのって男心を吸い寄せるのです。

しなやかな中肉中背で、身のこなしはかろやかでした。いかにも甚兵衛のような酸いも甘いも噛みわけた男が好

みそうな、若々しくさわやかな肉感が全身から匂い立っています。

「お父っつぁんに死なれてつらかったろう。でも身軽になったんだから、あまりくよくよせずに、嫁入りのことでも考えたほうがいいな。婚礼の日どりはきまったかい」

盃を干してから大二郎は訊きました。

「いいえ、まだはっきりとは。でも、一周忌がすぎてからになるのはたしかです」

ほほえんでひさは酒を注ぎます。

袖口からのびる腕がまっ白です。大二郎はひそかに生ツバを吞んで目をそらしました。

「残念だぜ。どの道おまえは近々嫁入りする身なんだからな。もっと以前に知りあっていれば、ときどきはこうやって酌をしてもらいにきただろうに」

「そんなふうにおっしゃられると、私も揺れ動きます。初めてお目にかかったとき、なんてご様子のよろしいお役人さまかとおどろいたものですから」

「ほんとうかね。うれしいことをいってくれるじゃないか。おまえに二世を契った男のいるのが口惜しくなる」

「市太郎さんのことですか。私との間柄はどうかご内聞にお願いいたします。あと一年はここで奉公しなきゃならないので、ほかのお客に知られたくないものですから」

ひさは目に力をこめて大二郎をみつめ、一礼しました。

ゾクリとくる目つきです。

「しかし大変だったんだなあおまえも。医者のかかりが溜まりに溜まって十五両にもなったそうじゃないか。まさか給金と心付けだけで工面したわけじゃあるまい」

いきなり大二郎は切りこみました。

ひさはたじろいだ様子もなく、笑ってうなずきました。

調べがついているのを察していたようです。

「お父っつぁんの病いが長びくので、高名な良庵先生に診ていただいたんです。でも、あんまり効き目はありませんでした」

勝五郎が倒れて以来、医者と薬代はひさが客からもらう心付けでやりくりしていました。

だが、病状は重くなるばかりです。勝五郎が焦れて当り散らすようになったので、名医の良庵にきてもらうようにしたそうです。

「松屋甚兵衛から金を借りたからには、廓(くるわ)奉公をすることにきめたんだな」

さらに大二郎は切りこむと、ひさは心外そうな顔でかぶりをふりました。

「いいえ、とんでもございません。近く婚礼をあげる身で吉原だなんて」

「となるとどうやって借金を返したんだい。いや、まだ返してないのか」

「はい。十五両お借りしたままでございます。返済について松屋の旦那にこれからお願いしようとした矢先に亡くなられて―」

「なるほど。証文は書いてなかったんだな。十五両棒引きになったわけか」

「いいえ、滅相(めっそう)もございません。あと継ぎの徳之助さんにお返しいたします。市太郎さんと世帯をもってから月に一両、利息をつけて二十回払いということで」

市太郎のいったことと話のつじつまは合っている。

だが、市太郎はしがない叩き大工にすぎません。世帯をもてば月に一両でもたいへんな重荷になるはずです。

甚兵衛はひさから証文をとらず、小遣帳に記していただけでした。十五両くれてやる気でいたのです。女中の給金が年に二、三両の時代に、深い仲でもない女にそんな大金をあたえるわけがありません。

「甚兵衛はおまえから借金の証文をとらなかったようだな。なぜなんだ」

「はい。他人行儀はよそうと松屋の旦那がおっしゃられたので。あたしを信用してくださったのです」

「つまりおまえと甚兵衛は、証文をとりかわすのが水臭く思える仲だったのだな。それならなっとくがいくぜ」

「いやでございますよ大町さま。松屋の旦那はあたしに使い道があると見込んで可愛がってくだすっただけなのです。それ以上でも以下でもございません」

「まことかな。本音をいうと、おれの見立て違いであってほしいんだ。おまえが甚兵衛とデキていたなんて、考えたくもないよ」

大二郎は顔をかくすように盃をあおります。

「まあ、おれの気持なんかどうでも良いとして、市太郎はどうなんだ。借金のことを知ってるのか」

大二郎はカマをかけてみました。

ひさは甚兵衛から大金をもらいました。借金などなかったのです。しかし、それでは医者代や薬代をどこから工面したかの説明がつきません。甚兵衛との関係が市太郎にバレないように。ひさはたぶん嘘をついたのです。

「市さんですか。知っております。いま申しあげたとおり二十回払いにしてほしいと松屋の旦那にお願いする気でおりました」

「目明しどもは、市太郎がおまえと甚兵衛の仲に気づき、嫉妬に狂ってやったと見ている。借金も棒引きになることだしな」

「それはあんまりでございます。市さんはけっして人をあやめるような男じゃございません。もしもあの人がそんなだったら――」

「婚礼をやめるかね。でもおまえは甚兵衛の殺された夜は、二の橋の平野屋で市太郎と同宿したそうじゃないか。市太郎からきいたぞ。一晩中抱きあっていたと」

「違います大町さま、あれにはわけがーー」

「心配しているのだよ。下手をすると夫婦で獄門に首をさらされはしないかと」

「おやめください。大町さま、私がお嫌いなのですか」

ひさは心の昂りをおさえきれず、顔を袖で覆って部屋から駆けだしいってしまいました。

大二郎に痛いところを突かれて逃げだしたのでしよう。

代りに女将が部屋から駆けこんできて、畳にひたいをすりつけました。

「お役人さま、とんだご無礼でお詫びのしようもございません。利口なようでもあの子はまだ十七でございます。いたらぬ点は私からようくいいきかせますので」

くだくだとのべるのを制止して大二郎は勘定を命じた。

「めっそうもない。お調べなのに――」

「いや、きょうは客で来たのだから」

大二郎は勘定を払い、べつにひさへの心付けとして、奮発して銀一枚をおきました。

玄関へ大二郎が出ると、ひさがあわてて見送りにきました。銀一枚の威力でしょう。

「済まなかったな。ことばが過ぎた。おまえと市太郎の仲を妬いていたのさ」

ひさに声をかけて大二郎は外に出ました。

女将や女中たちがにぎやかに見送ります。

大二郎はゆっくり歩をはこびました。ほろ酔いだが、気落ちしています。

昼間、ひさと市太郎がすでに他人同士ではないと知って以来、ずっと気落ちがつづいています。ひさが借金の件で市太郎に嘘をついていることだけが、ちょっとした救いでした。ひさは市太郎にさほど惚れていないようです。まだ見込みがあるのかもしれません。

一番怪しい男だった市太郎が無実だとわかった以上、大二郎は網を張り直さねばならなくなりました。

亀蔵と喜平次に号令して、配下の下っ引たちを聞き込みにまわらせました。甚兵衛に恨みを抱く者が新しく見つかるかもしれないのです。

ところが四、五日たっても網に魚はかかりません。

同業の女衒にも遊女らの親たちにも甚兵衛を恨んだり憎んだりしている者はいませんでした。彼の手で吉原に送りこまれた花魁たちも、あのおかたのおかげで貧乏からぬけだせた、と一様に感謝しているのです。日がたつにつれ甚兵衛の人徳が明らかになる一方でした。

「なんだ、まだホシが浮かんでないのか。大町、おまえの配下の目明しがトロいんじゃないのか」

上役に大二郎はそういわれる始末でした。

亀蔵や喜平次に罪はありません。彼らのためにも大二郎はみずからもすすんで聞き込みをしてまわりました。