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2012年8月16日

花かんざし(7)

そんなある日、深川の弥勒寺(みろくじ)へ大二郎、喜平次、新助は足をのばしました。むかしたびたび昼飯をとりに寄った本所元町の煮売屋の親父の三回忌なので、墓参りにいったのです。

お参りをすませ、三人が大工町にさしかかったとき、喜平次がふっと足を止め、周囲を見まわしてくんくんと鼻を鳴らしはじめました。なにかを嗅ぎ当てたようです。不思議な嗅覚を喜平次はもっています。

「そうだ、例の市太郎の家はたしかこのあたりじゃかったかな」

勢い込んで喜平次がいいました。

いわれてみればそのとおりです。甚兵衛殺しの一件に格別の関心があるから特殊な嗅覚が働くのでしょう。

自身番で訊いてみると、市太郎の住む裏長屋は目と鼻のさきにありました。

市太郎の住まいの前で案内を乞うと、老女の声で返事がありました。市太郎は稼業に出て留守なのです。

喜平次が表戸をあけます。うっと三人は顔をしかめました。糞尿の悪臭と病人の匂いがまじりあって顔におしよせてきたのです。

とっつきの間に寝床が敷かれ、老婆が寝ています。しわくちゃの顔をこちらに向け、上体を起こして、

「ああサブちゃん、ようこそね」

欠けた前歯を見せてニタリと笑いました。

白髪頭にまるで年頃の娘がするような花かんざしが赤く咲いています。枕元で便器がひっくり返り、汚物が流れ出ていました。

「ィ、市太郎は―」

ひるんで喜平次が訊こうとすると、老婆はとつぜん鬼の形相になってさけびました。

「だれだいおまえは。あたいを呼びにきたのかい。男なんかに用はないよ。帰れ帰れ」

老婆は汚物をつかんで三人に投げつけました。

「うわあヤバい」

喜平次はあわてて表戸をしめます。

「こりゃだめだ。話にならん」

大二郎らは苦笑いして顔を見あわせます。

隣家の主婦が、なにごとか、と飛び出してきました。

「――トミさんは足腰が痛くて二年まえから寝たきりになったんです。おまけにものわすれがひどくなって、去年の秋ごろから斑(まだら)ボケになっちまったんですよ。ボケがくると気難しくなって、人に当りちらすんです。困ったものですよ。市太郎さんはほんとに大変です。よく我慢しておっ母さんにつくしているわ」

市太郎は大工稼業のほか、めし炊き、掃除、洗濯、行水から母親のシモの始末までやっています。界隈ではまれな孝行息子なのだそうです。

市太郎は酒もタバコもやりませんが、以前はとくに堅物ではなかったようです。医者代、薬代がかさんで暮らし向きに窮してから身持ちが堅くなったらしい。最近賭場へ出入りして借金ができたという噂ですが、くわしいこと知らないということでした。

「近いうちに嫁をもらうといっていました。女房ができればあの人も楽になるのにねえ。だけどこんな貧乏長屋にくる女がいるんでしょうか」

ご多分にもれず隣家の主婦はおしゃべりでした。

おかげで市太郎について多くのことがわかったのです。

礼をいって大二郎らはそこをあとにしました。

「やはり市太郎は無実のようですな。これほど親孝行な男が人殺しなんかするわけがねえ」

「そうですよ。親孝行していれば世間に良い噂も立ちます。おいらも見習ってせいぜい親孝行しようかなあ」

喜平次も新助もすでに市太郎の潔白を信じています。

大二郎のほうは反対にかえって疑いを濃くしていました。

もう夕刻です。大二郎は二人とわかれ、両国橋東詰めの佐野屋へ足をはこびました。

ひさが先客の座敷へ酌に出ていたので、大二郎は二階の

部屋でしばらく待たされた。

小徳利を一本あけたころ、やっとひさはあらわれました。大二郎の顔を見て、恥ずかしそうに目を伏せます。

小徳利を両手でもち、ふれあいそうに顔を寄せて酒を注ぎました。わざとのように大二郎の顔は見ません。甘くやわらかな香りがやさしいため息のように大二郎をつつみこみます。

しばらく雑談してから大二郎は訊きました。

「婚礼をあげるのは父の一周忌が済んでからにする、といっていたな。市太郎は同意したのか」

はっと顔をあげてひさはかぶりをふりました。

「いいえ、大町さま、じつはそれで困っているのです。市さんがせき立てるんですよ。今月にしようとか、遅くとも来月中だとかいって」

「そうだろうな。で、おまえはなんと――」

「断っています。お父っつぁんの一周忌も済まないうちにとてもその気になれないって。市さんは近ごろ、婚礼は来年でも良い、とりあえずうちへ来いといいだすんですよ。もう子供みたい。ききわけがないんです」

「そうなのか。でも、なんだって市太郎はそんなに急ぐのだい。早くおまえと暮らしたい気持ちはわかるが」

「正直いって私もよくわからないんです。お父っつぁんが死んで、遠慮がなくなったからでしょうか」

ひさは浮かない顔でした。

市太郎にさほど惚れこんでいないようです。なんといっても親のきめた許婚者でした。ひさ本人がえらんだ相手ではないのです。

「じつは今日、深川の弥勒寺へいったのだ。ついでに大工町の市太郎の家に立ち寄ってみた。おまえ、市太郎の実家へいったことがあるのか」

「いいえ、どうせ裏長屋なのでしょう。あの人も来いといいませんから」

「市太郎は母親と二人暮らしだ。それは知っているな」

「きいています。足腰が痛んで、三度のごはんを炊くのもたいへんだとか」

「いや、それどころじゃない。寝たきりなのだ。市太郎はマメに世話をやいている。めし炊き、掃除、洗濯、行水からシモの世話までなにもかもやるらしい。界隈では評判の孝行息子なのだそうだ。」

きいてひさは顔色が変わりました。

「ほ、ほんとですか。寝たきり。私、初耳です。市さんはかくしていたのかしら」

「寝たきりならまだいい。ボケがきている。それも他人に喧嘩をふっかけるたぐいの斑(まだら)ボケだ。あの世話をするのは大変だぞ」

老婆が汚物をつかんで投げつけてきた顛末(てんまつ)を大二郎は語ってきかせた。

「一度たずねてみるべきだな。おれがいうより自分の目でたしかめるほうがいい」

顔をこわばらせたひさにいいきかせます。

ひさ自身の目で見るほうが、市太郎のいう男の正体がはっきりするだろう。

「そうなの。市さんは私におっ母さんの世話をさせるために祝言をいそいでいるのね」

ぼんやりと、あらぬほうに目をやって、ひさは独り言のようにつぶやきました。

「おまえは長年寝たきりの父親の世話をしてきた。どんなに大変なことかよく知っているんだろう。だから市太郎はかくしていた。いったん籍を入れてしまえば、女はもう逃げようとしてもどうにもならないからな」

この時代、女は亭主の承諾なしに離婚できない定めになっていました。

市太郎はなにがなんでもひさの籍をいれ、囲いこんでしまう気でいたのです。

「寝たきりの親の面倒をみる暮らしって、ほんと地獄なのですよ。つや消しな話ですけど、私の一日はお父っつぁんのお尻の穴からうんこを掻きだすことから始まりました。お父っつぁんにはもういきむ力がなかったから仕方なかったんです。掻きだしたものをおまるにいれて、長屋の惣雪隠でザーッと捨てるの。あの音、わすれられません」

「そうか。おれたちには考えもつかぬ苦労だ」

「勘弁してくださいね。こんな話をして。でもほんとに大変だったんです。シモの世話から行水、体拭き。肩と腰の按摩。それに三度のごはんと洗濯。お医者さまの呼び出しなどつぎつぎに用事ができていつもくたくたでした。夜中だって起こされるし」

勝五郎は寝て足が吊ったり頭痛や耳鳴りがすると、真夜中でも大声をあげて二階で寝ているひさを呼びました。おかげでひさは女中奉公のあいだも暇をみては居眠りをせずにはいられませんでした。

「正直いうと、そんな日がつづくと魔がさすことがあるんですよ。お掃除の途中ふっと、早く死んでくれないかな、と思ったりするんです。かりにも実の父親にたいして―。

あとで自分がいやになります。もう情けなくて、情けなくてひとりで泣きました」

「そうなのか。市太郎の母は寝たきりに加えてボケがきている。世話するのはもっと大変だぞ」

「考えなくてはなりませんね。実の父親だからまだしも辛抱できたけど、他人だったらとても耐えられません」

「市太郎はけしからぬやつだ。なにも知らないおまえを地獄にとじこめようとした」

「市さんもおっ母さんが大切だったんですよ。女房の代わりはあっても親の代わりはありませんからね」

ひさは急にしゃんとして猪口を大二郎に突きつけます。

「ご相伴させてくださいな大町さま。パーッと元気にやりましょうよ。くよくよしても朝は来ないのだから」

「そうか、わかった。苦労話をさせてすまなかったな。なにもかもわすれるまで飲もう」

よろこんで大二郎は酒を注いでやります。

階下の座敷がにぎやかに騒いでいました。今夜は酔いつぶれて駕籠で八丁堀へ帰ろうと大二郎は決心したのです。