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2012年11月6日 4:35 AM

追悼、藤本義一君

棺を蓋(おおい)て事定まる、という格言があります。人の真価は亡くなってからわかるという意味です。
11月2日、藤本義一君の葬儀に出席してその思いを新たにしました。
新聞によると葬儀の参列者1000人、通夜の客は800人だったそうです。盛大な葬儀だったわけですが、テレビ「イレブンPM]の司会22年の実績からすれば当然です。一時期彼は日本中に顔と名を知られた文壇のスターでした。
わたしがおどろいたのは、いわゆる「関係者」の多いことでした。芸能人の花輪は隙間なくならんでいたし、放送作家、脚本家、ライター、イラストレーター、後援者などが会場を埋めていました。大阪には藤本王国というべき領域があったのです。22年の司会生活のなかで藤本君の世話になった人間がいかに多かったかを知らされました。彼は一介の小説家ではなく、王国を取り仕切るボスでもあったのです。
わたしが藤本義一の名を初めて意識したのは昭和42年のことでした。当時わたしはサラリーマンで、企業組織に適応できず、なんとか小説家になりたいとあえいでいました。同人雑誌で修行しながら雑誌「文學界」の新人賞に応募し、結果を待っていたのです。

幸い一次予選に通り、歓喜して十数名の通過者のリストを眺めました。そのなかに藤本義一の名を見つけてホント愕然としました。当時彼はすでに放送作家として一家をなし、「イレブンpm]の司会者として全国に顔と名前が知られていたのです。あんな大物が新人賞を取りに来るのか。小説の世界で一人前になるのがどんなに難しいか思い知らされました。
新人賞には二人とも落選しました。だが、それを契機にわたしは書く場を得られるようになり、プロへの第一歩を踏み出したのです。藤本君も同じように小説の注文がくるようになったらしい。
彼に会ったときわたしは質問しました。
「あんたのように一家をなした者がなんで小説に進出するんや」
すると彼は答えました。
「同じ作家でもアタマに{放送}がつくとアカンのや。世間が認めよらん」
以後わたしたちは直木賞をめぐるライバルと目されるようになりました。ともに昭和8年生まれ。大阪住まいとあってそう見立てられたのでしょう。
当時、小説家のテレビ出演に関して文壇の見方はきびしかった。
「テレビに出る奴はバカ。出たがる奴はもっとバカ」
吉行淳之介さんの言です。だれにでもある単純な自己顕示欲に溺れたりせず、
小説家は作品で勝負せよということだったのでしょう。
「テレビに出すぎると作家の神秘性が薄れて本が売れなくなる」
などという編集者もいました。
当時テレビに出ていて人気のあったのは東の野坂昭如、西の藤本義一が双璧でした。わたしの尊敬する野坂さんはすでに直木賞をもらっていたけど、藤本君はまだ。賞を狙う者としてはビビるところだけど、藤本君は平気でした。
一度わたしは訊いてみたことがあります。
「テレビに出ると本が売れなくなるそうやけど、ホンマか」
すると彼は答えました。
「関係ないと思うで。テレビと本は客層が違うから」
電波と活字の差を彼はすでに見極めていたのです。
わたしは文壇の常識に逆らえませんでした。わたしにも某局のニュースショー番組の司会の話があったのですが、賞がとれなくなりそうな気がして断ってしまったのです。学生時代からペンで稼いでいた藤本君にはなにをやっても食っていける自信があったけど、サラリーマン上がりのわたしにはそんな度胸はありませんでした。
もっとも司会を引き受けたところで、とても藤本君のようにはいかなかったと思います。後年わたしは何度か「イレブンpm]にゲスト出演しましたが、藤本君は当方とマジメに会話しつつディレクターの指示をちゃんと見て的確に進行させていました。なんという目配りのきく男かと感嘆させられたものです。
まもなく藤本君は直木賞をとりました。選考委員の水上勉氏が
「これを機会にテレビをやめて本業に専念しなさい」
と選評に書いたけど、彼は歯牙にもかけませんでした。結局出版業界はテレビの威力に怯えていて、なにかと批判的だったのでしょう。
わたしは藤本君に完全に差をつけられ、50すぎてやっと受賞できました。心のどこかに彼にこれ以上引き離されまいという意識のあったのは確かです。
彼の訃報をきいてなんだかがっくりと身体から力がぬけました。パーティなどで会ったとき一緒に飲みにいったぐらいで、個人的な付き合いはほとんどなかったけど、わたしにとっても彼は重要な存在だったようです。
彼は取り巻きの人たちにのみ恩恵をもたらしたわけではありません。神戸大震災で親をなくした子供たちの施設をつくって、理事長をつとめていたのです。
これにはマイリました。彼はめったに北新地へ出なかったけど、稼ぎを世のため人のために使っていたのです。
多才な彼と違ってわたしにできるのは小説を書くことだけ。生きながらえた幸運を小説に向けて一仕事するつもりです。