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2015年12月30日 12:38 AM

野坂さんの置き土産

野坂さんの葬儀のさい気づいたことですが、甲斐甲斐しく葬儀の面倒を見ていたのはみんな出版社のOBでした。故人が脳梗塞で倒れてもう10年以上たつので、現役世代では面識のある人がすくなかったのでしょう.

OBの人たちも現役で野坂さんを担当したころはみんな3歳から10歳ほど年下

だったはずだけど、個人が倒れてほとんど書かなくなって以来、年々歳の差が

縮小した感じで、ほとんどの人が実際より老けて見えました。出版社が取り仕切った葬儀でもなかったので、なおさら現役の人がすくなかったようです。 (さらに…)


2015年12月22日 2:59 AM

葬儀の還り

12月19日は野坂昭如さんの葬儀。11時開始でした。朝起きが苦手なので、 前日に上京しホテルへ一泊しました。上京は4~5年ぶりと思います。ときの流れの速さを思い知らされました。
わたしは著名人の葬儀に参列するのは初めてです。受付は10時からということでした。野坂さんの逝去はテレビで何度も放映されました。さぞ参列者が多いのだろう。受付には行列ができるだろうし下手をすると入場できないかもしれない。 (さらに…)


2015年12月15日 1:51 AM

ラッキーだったわが人生

野坂昭如さんが亡くなったのは12月9日の夜でした。前回のブログでかいたように、その夜わたしは珍しく不眠症で七転八倒していました。

オカルトが好きであればいろいろこじつけできます。私の秘めたる霊能力が異変を察知して眠れなかったとか、霊魂が信号を交わしたとか、昔の人は証明不能の説明で納得したのでしょう。私の場合は翌日早く西京都病院に行く必要があったので、早く眠らねば、と焦るほど目が冴えて眠れなかっただけ。深刻なオカルト譚とは縁がありません。

それにしても野坂さんの逝去はショックでした。12年前に倒れて以後は毎日リハビリの日々で、本人もご家族も筆舌につくし難い苦難の日々だったと思います。

わたしは学生時代からの知り合いで、よく一緒に飲んだり赤線で遊んだりしたものです。野坂さんは大酒豪だったけど、わたしはさほど飲めず、野坂さんと彼の親友S氏についてゆくのが精一杯でした。野坂さんとS氏は二人とも大酒豪で,

S氏は喧嘩が強く、野坂さんは学識に富み、寡黙でメガネの奥から他人をじっと観察しているタイプでした。わたしたち年下の者は二人を押し立てて前進する兵隊さながらぞろぞろと後に続いたものです。

彼らは私たちよりも2~3年早く卒業期を迎えました。S氏は読売新聞の汽車になりましたが、野坂さんは就職の心配などする気配もなかった。彼の父上は新潟県の副知事で、NHKの頓智教室に出演する粋人でした。たぶん父上のコネで三木鶏郎の冗談工房に参加し、コマソンや寸劇などを書いてやってゆくつもりだったのでしょう。

10年近くたって私は大阪の化学会社の宣伝担当になっていました。当時野坂さんはコマソンを多作し、サングラスをかけ、プレイボーイを自称して注目され始めていました。わたしは化学会社提供のラジオの帯番組のキャスターに野坂さんをお願いし、以来彼は週に一度の収録に大阪へ来るようになりました。

週に一度、一緒に飲みました。泊りは大抵わが家です。関目の農家の土蔵を改造した六畳二間で暮らしたころ、ケッサクな事件が起こりました。

その農家は便所が外後架でした。母屋の外にある古びた小屋です。外から引っ張ると扉が4~50センチほど空いてしまいます。母屋に5~6歳ぐらいの知恵遅れの男の子がいました。この男の子が便所へ誰かが入ると扉を引っ張って隙間を開け、覗き見る奇癖がありました。ある晩野坂さんがこの外後架へ入りました。

何時ものように男の子は扉の隙間から覗き込み、「ギャーッ」と叫んで引付けを

起こしたのです。内部から野坂さんが、当時まだ珍しかったサングラスをしたままにゅーっと顔を出し「だれじゃ」と問うたので、男の子は仰天して引付を起したのでした。母屋の夫人が走って子供を連れ戻し、野坂さんは妙な顔で帰ってきました。私と妻は腹を抱えて笑い、しばらく止まらなかったものです。

野坂さんの番組は面白かった。彼は喫茶店で水割りを飲みながらさらさらと週刊誌連載の雑文を書き上げ、その才能ぶりに私は感嘆していました。

当時から野坂さんは小説で世に出るつもりでいました。「小説は文章が肝心だよな。読者がページをひらいたとき、あ、これはノサカの書いたページだとわかるようにしなくてはあかん」といっていました。

やがて「エロ事師たち」が世に出ました。読んでみると、彼のいったとおり、江戸

文学を思わせる文語体に現代性をまぶしたような、息の長い文章で、ページがびっしりと活字で埋まっていました。なるほどこれではノサカと見違えるわけがない、とわたしは感心したものです。読み進むと破天荒な面白さに圧倒されました。「エロ事師たち」は大好評で野坂さんは文壇デビューをはたしたのです。

昭和45年直木賞受賞。以後の活躍ぶりは皆さんご存知の通りです。

12年前、野坂さんは久しぶりで関西へ遊びにきました。祇園の寿司屋ノカウンターで飲む間、野坂さんは自分の胸を刺して「ほら、さわってごらん」といいました。いわれるとおりにしてみると、指先に石鹸ほどの大きさの四角いものが触れました。ペースメーカーでした。不整脈がひどいので検査を受けたところ手術が

必要といわれたそうです。看護師がカタログをもって説明に来ました。費用は器具だけで200万円だという。ふうん高い。ため息をついて術後、銀行で200万をおろして病院へ支払いに行きました。すると「70歳以上はタダです」といわれたのです。

「ジジイになっても良いことはあるぜ。悲観するな」と彼はいいました。その1年後

彼が脳こうそくで倒れたのを知ったのです。

もう作家として書くのは無理だ、という噂を編集者からききました。復活を願う反面、彼が停滞している間に何とか追いつきたいという気持もありました。でも、月日のたつのは閃光のように速い。差は詰まるどころか離れるばかりです。

彼が他界して本当に張り合いがなくなりました。目標および尊敬の対象を失ったわけです。この10年間もわたしは彼の諸作を次々に愛読、研究してきたのです。追いつけないのがいよいよはっきりしてきました。あと何年生きられるかわからないが、「ジジイになっても良いことはあるぜ」の言葉を信じてやったいくしかないようです。考えてみると野坂さんと知り合っただけでわが人生は幸せでした。