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2012年9月9日

猫が鳴いている(10)

些細な横流しなどお店者(たなもの)ならだれでもやっています。店側も咎め立てしません。安い給料の埋めあわせのためです。しかし、気に入らない使用人を辞めさせるときは、横流しは格好の口実になります。

「仙吉が大変なことをしでかしまして。なんとも申し訳ございません。仙吉にはひまをとらせました」

与兵衛は初枝の住まいへ詫びをいれにゆきました。

「仙吉はおかみさんのいいつけでやったんでしょ」

初枝はぴしゃりと表戸をとじてしまいました。

与兵衛は内儀のきみに頭があがりません。文句をいうとヤブヘビになります。引きさがるより仕方がありませんでした。

事情を知った寺子屋の師匠の同輩が仙吉をあわれに思って、知り合いの一人相撲の親方へ仙吉をあずけたのです。

以後仙吉は親方の家の奉公人になり、親方に指示されるまま、忙しそうな一人相撲の芸人のもとへいって手伝いをしています。

夜明け島が万世橋で興行した日、仙吉は客引きをしていました。

その事実をつかんで、大二郎は事件の筋道が見えてきたような気がしました。亀蔵、喜平次を呼んで胸のうちを明かします。

「種太郎を拐かして殺したからには、下手人は三河屋に強い恨みを抱いていたはずだ。金が狙いではなかった。さしずめあやしいのはあの女師匠だな」

大二郎がいうと、二人の目明かしは目を丸くして

異をとなえました。

「恨みったって猫を殺されただけでしょう。猫の仇討ちに子供を殺したんですかい」

「しかも猫を殺したのは仙吉です。種太郎はそばで見ていただけですよ。猫の仇討ちをする気なら、仙吉をやるのがスジってもんでしょう」

きいて大二郎はゆったりと腕組みしました。

「いや、仙吉は内儀にいわれて猫を殺したんだ。初枝が恨むとすれば内儀のほうだろう」

「三河屋のおかみを悲しませるために初枝は種太郎を殺したとおっしゃるんで。そうかなあ。猫の仇討ちに子供を殺す。いくら猫好きでも、そこまでやりますかねえ」

めずらしく喜平次は異をとなえ、亀蔵も納得がいかない面持でした。

「まずまちがいないとおれは踏んでいる。じつはきょう花房町の寺子屋へ人をやって、初枝の書いた手習いの手本を三冊ばかりもってこさせたんだ。それで手蹟を調べた。草書の見分けはむずかしいが、夜明け島へとどいた依頼の手紙や葬式の芳名帳と同じ書き癖のある文字がいくつか見つかった。あの女師匠がこの一件の台本を書いたのだよ。ちょっと信じられないがね」

大二郎がいうと、亀蔵も喜平次も半信半疑の面持になった。

「書」のこととなると、二人は沈黙せざるを得なくなります。

大二郎は話をつづけた。

「おれは今夜、初枝の家にいって話をきいてみるよ。おまえたち、ご苦労だがどこからか子猫をさがしてつれてきてくれ。なるべく白の子猫がいい。可愛いやつをな」

初枝の心をほぐすために子猫が要るのだと付け加えます。

「わかりました。さがしてみます」

腑に落ちないまま二人は出かけていきました。

 

 

その夜、大二郎は大和町の裏長屋に住んでいる河野初枝の住まいを訪問しました。

案内を乞うと表戸があき、初枝が顔を出します。

大二郎はびっくりしました。以前会ったときよりも初枝はやつれて、顔が小さくなり、反対に目が大きくなっています。まるで猫です。それも見世物の化け猫に似ているではありませんか。ユキの霊が乗り移ったという噂が出るのもむりはなかったのです。

初枝のほうもおどろいた顔でした。大二郎は着物の帯のあいだに一匹の子猫をいれて左手で抱きかかえているのです。

「お師匠さんの具合がわるいときいて見舞いにきたよ。ついでにいろいろ話をしたいと思ってな」

子猫をあやしながら大二郎は申しいれました。

初枝は気のすすまぬ様子だったが、奉行所の役人を閉め出すわけにもゆきません。どうぞ、と硬い顔で部屋に招きいれます。

部屋はきちんと片づいています。初枝は飾り気のない薄化粧の女ですが、住まいにはそれなりの色香がただよっていました。

大二郎は子猫を抱いたまま、座布団にすわりました。初枝のいれてくれた茶を飲むと、愛らしい声で子猫が鳴きます。

初枝の顔がかすかにやわらぎました。

「可愛いですね。名はなんというのですか」

「まだないのだ。つけてくれないか」

「そんな。急には思いつきません」

「猫といえば、初枝どのは大事にしていた猫を三河屋の小僧に殺されたとか。それがもとで気鬱〈鬱病〉になられたときいている」

「はい。お恥ずかしゅうございますが、あれから三ヶ月もたったのに、まだユキがわすれられません。夜になるとさびしくて泣いてしまうのです」

ささやかな仏壇に初枝は目をやりました。

亡夫の位牌と小さな骨壺がならんでいます。灯明がともり、線香の香りがただよっていました。黄色い草花も供えてあります。

夜眠れないので、なにをするにも気力が湧かないのです。寺子屋をしばしば休んでしまいます。このままではお払い箱になるかもしれません。

初枝は弱々しく打ちあけました。

「可愛がっていた生き物に死なれて気鬱になる者はめずらしくないぞ。深い悲しみがいつまでもつづき、体も衰える。初枝どのはその見本のようなお人だ」

「そのようでございます。自分はもっと気丈な女だと思っていたのですが」

「じつをいうと、おれも子供のころ、飼い犬に死なれて気鬱になったことがあるのさ。おまえさんを笑えないよ。朝起きるとさびしくて涙が出た。めしものどを通らなかった」