阿部牧郎(あべ・まきお)

1933年9月4日生まれ。京都大学文学部卒。1988年、8回目候補作であった『それそれの終楽章』で第98回直木賞を受賞。官能小説、戦記小説、時代小説など幅広い分野で健筆を振るっている。近著は『神の国に準ず 小説・東条英機と米内光政』『定年直後』など。

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昭和8年9月4日京都生れ。6人兄妹の長男です。 昭和20年3月、戦争の激化により母と弟妹ともども父の郷里である秋田県鹿角郡の農村へ疎開しました。京都府庁勤務の父は単身京都に残り、祇園で遊んでいたらしい。

農村では今日でいう苛めに会い、エライ苦労をしました。以後、農村嫌悪症になり、今日になって多少改善されたところです。

8月に戦争が終りました。これで京都へ帰れると㐂んでいたら、父が役所をやめて郷里に帰ってきました。仕方なく私は翌年、大館中学(旧制)へ入学し、同級生たちと野球漬けの楽しい日々を送りました。

昭和24年の末、万引事件を起して花輪高校へ転校し、昭和28年、一浪して京都大学文学部へ入学しました。なつかしの京都へ帰ったのですが、大学はあまり楽しくなかった。

周囲は気のきかないガリ勉秀才ばかりで、きまりきったことしかいわない。面白味がない。それでなくとも私は大勢で先生の講義をきくのが嫌いで、受験勉強もほとんど独学でした。私はめったに教室へ出ず、麻雀とクラシック音楽喫茶と読書でぐうたらな日々を送りました。金があればもっと遊べたのに、貧乏なのがじつに残念でした。

昭和32年に卒業し、日本レミントンランド大阪支店へ入社しました。外資系企業で、米国のレミントン本社は会長がダグラスマッカーサーだということでした。初任給の相場は当時一万三千円前後でしたが、レミントン社は一万八千円。「さすが、マッカーサーの会社だ」とよろこんで出勤したものです。

ところが同社の給与システムはアメリカ式で、夏冬のボーナスというものが皆無なのでした。月収ではなく年収にすると、日本の会社よりも安いのです。私たちは大いにシラけて勤務意欲を減退させました。おまけに月給の出るのは二年間だけで、あとはセールス歩合給で生きてゆくよう命じられたのです。

セールスの担当機械は会計機。コンピュータの元祖にあたる事務用機器で、一台三百万円もしました。一台売れば歩合は三〇万円。まったくアメリカ式の能率給です。売れればなるほどリッチマンだが、当時の日本でバカ高い会計機が売れるわけがない。

毎朝私たちは資料をいれた鞄を手に会社を出ました。手当りしだいに会社を訪ねてセールスを申しいれる。どこでも断わられます。一年に一台売れれば最良の成績だとわかってきて、私たちはシラけました。


「アホくさい。こんな会社にいられるか」


会社を出て私たちは麻雀をしたり、映画館へ入ったりしました。

月給の出る二年のうちに転職先をきめる魂胆です。私は二年後食品関係の業界紙に職を得たのですが、ここは安月給のうえ屈辱的な広告取り業務をやらされて意気消沈。

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このころから私は同人雑誌に加入して小説を書きはじめました。自分はサラリーマン生活には向かない。小説家となる以外、浮上の道はないと見きわめたのです。 昭和36年、上場企業のタキロン化学へ入社し、やっと生活が安定しました。妻と結婚し、まじめに勤務して3年後に課長になりました。それでも小説は書きつづけました。ちゃんとした企業に入って、自分はサラリーマンに向いていないと強く思い知ったのです。

昭和42年、文学界新人賞の最終選考に残ってから、注文がくるようになりました。私は会社をやめて勝負に出ました。34歳でした。
以後は比較的に順調でした。その年すぐに直木賞の候補となり、落選はしたけど、40歳までには受賞する自信がありました。

その後毎年のように候補になったけど、受賞できない。7回落選し、40歳をすぎてしまいました。仕方なく書いた官能小説が大当りして、以後は何本も連載をかかえる身になったのです。金が入り、田舎にも家を建て、北新地の常連になりましたが、賞にたいする欲求はすてきれず、以後も賞狙いの作品は書き続つづけたのです。

昭和63年、ようやく第九八回直木賞を受賞しました。以後は硬軟さまざまなジャンルに手をのばして書きつづけてきました。だが、70歳をすぎると世間は「終った作家」として扱います。おりからのIT革命と出版不況で最近は鳴りをひそめた格好になっています。だが、年をとっていろんなことがわかってきました。あと数年は新しい視点からつぎつぎに書いてゆく自信があります。

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ボケ防止に赤ワインを愛飲し、毎日一万歩ウォークにはげみ、ときには北新地の音楽バーに出演してリフレッシュしています。

ホームページに載せた作品は自信作ばかり。ぜひ手にとって読んでみて下さい。